だがそんな手間をかけるくらいならば、私はジカに自然か街頭に接触した方がよいので、何もわざわざ本を買って小説を読む義務も必要もない筈だ。風俗の描写[#「描写」に傍点]は現実の風俗よりもモラルの濃度が高い筈で、その濃度さえ高ければ鑑賞に無理な故意などは無用な筈だ。専門の作家にとっては色々の職業的教訓は含まれているかも知れない。谷崎潤一郎の猫の咄などは、確かに奇術的リアリティーがあって芸談には値いしよう。――だが一体読者は、人間の思想を殆んど眼に見えては促進しないような、或いは促進の条件を与えてくれないような、作品に対して、一々敬意を払う代りに、断固として退屈するだけの権利を持たないものだろうか。
 私は何等かの所謂「イデオロギー」に照し合わせてとや角いっているのではない。私という一人のごく平凡な読者が喜べるか喜べないかをいっているのだ。そしてその際私よりもすぐれた非凡な読者ならば喜べるだろうというような推定も出来兼ねるというのである。もし私が誤っているなら、恐らくそこには何か約束[#「約束」に傍点]みたいなものが横たわっているのだろう。この約束は恐らく人間的教養や官能的な訓練とは無関係な約束ごとだろう。事実問題として私は、この種の無道徳的軽風俗文学に本能的に我慢がならぬ。それが私のイデオロギーだというならいってもいいのだ。

   四 人民派と人民戦線[#この行はゴシック体]

 仮に武田麟太郎と室生犀星との間に、もし共通点があるとすれば、それはいずれも軽風俗の文学だという処だろう。室生犀星には思想がクッキリと形を取っている、と或る作家が云ったのを覚えているが、「生面」(『文芸』三六年七月)などどうもそうでもないらしい。けれども、しかし何か「モラルの素」とでもいうようなものをひそかに見せてはくれる。矢田津世子「やどかり」(『改造』四月)などもこのカテゴリーにはいる部類だろう。こうした軽風俗のモラリティー、市井のいわば「人民」的モラル、を立場にした作品は今は一つの勢力であるように見受けられる。
 人民派的な軽風俗文学のモラルに就ては、方々で議論されている。それは色々な形においてだ。まず第一に中島健蔵風のニヒリズムによれば、あるべきものの文学とかくあるものの文学とに区別されそうだ。例えば島木健作は前者で高見順などが後者だという。後者が今の場合に相当するだろうことは推定してよ
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