ば重風俗[#「重風俗」に傍点]と軽風俗[#「軽風俗」に傍点]というような区別であろう。文芸時評(それは社会的時評でもあり論壇時評でもある筈だったが)は、この軽風俗的な文学作品の内にも、社会性を、思想性を、論理を又モラルを、見ねばならず、又見出さねばならぬわけだ。
だがしかし、軽風俗文学にもピンからキリまである。そしてどうしても前述の意味での文芸時評では文芸時評に値いしないような「風俗文学」があるのだ。つまりそういう文学はこの文芸時評からは、先天的に否定されねばならないのだ。しかもそういう作品は実に少なくないのである。
三 退屈権[#この行はゴシック体]
軽風俗と重風俗というような変な区別をして見たが、いずれにしても一種のモラルにぞくしている。モラルというと何か物々しいのだが、実はモラルという代りに道徳という日本語で結構なのである。道徳というのが別に道徳律や修身の徳目を意味する必要のないように、モラルといっても必ずしもいわゆる心理[#「心理」に傍点]に限る必要はない。寧ろモラル乃至道徳は行動の実際的論理、行動の人間的メカニズム、といったようなものだ。一身上の肉となった思想の姿や世界観の形だ。
だからこそモラルは風俗となって現われ得る訳で、しかも市井身辺の風俗ともなって現われ得るのである。夫が軽風俗といったものである。事実風俗はいつも道徳的なものだ。服装や趣味はいわばその人間の人となりを示すだろう。風体は彼の人物をいい表わす。風俗壊乱は道徳破壊の最も日常的なものだ。
風俗そのものはこのように道徳的な徴候をもっているのに、風俗を描いた文学の方が一向モラルを持たない場合があるという現象は、これは何としたものだろうか。重ねていうがモラルとはただの心理のことではない、むしろ行動のシステムのことだ。それによって読者の生活意識がひきしめられたり駆り立てられたり整頓されたりするその機構のことだ。ところがそうしたモラルを殆ど全く持たないような作品が、立派に雑誌には載っている。例えば『中央公論』(三六年七月)にのった「青葉木菟」(万太郎)とか「老ぼれ」(白鳥)とか「山女魚」(滝井)とか、の類を思い起こせば事は足りるだろう。
無論この内から故意にモラルを導き出そうとすれば、それは読者の勝手によって、常に可能なことだ。如何なるセンチメントもモラルの溶液をたたえてはいよう。
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