や実地の処理は少しも捗らぬ。西田哲学に於ける無の論理は、こうした論理の天才的水準を示すものだろうと私は考える。
 であるから現代のブルジョア観念論の新しい特色は、神の国と地上の国との区別という、かの神学的なカラクリを、主体や意識や意味という観念を中心とすることによって、新しい衣裳の下に再び持ち出したということにあるのである。今日のブルジョア観念論は往々、ヒューマニズムや文化主義の被服を纏った神学に他ならない。観念論の本質は、今日でも依然としてその特殊な形態による僧侶主義にあるのだ。

 観念論哲学がとどのつまり神学と僧侶主義とに通じることは、別に今日になって始まったわけではなく、寧ろ観念論の本来の規定にすぎないのであるから、之をブルジョア哲学の宗教化[#「宗教化」に傍点]という風に云い表わすことは出来ないが、併し抑々観念論が種々の形で宗教化し得る[#「得る」に傍点]根柢を用意しているものであることを、忘れてはならぬ。
 だが宗教化とは何か、或いは此の際の宗教とは何を指すか。或る種の批評家はマルクス主義さえが一つの宗教だという。云う意味はマルクス主義が何か一つの教義と儀礼とを特有しているからというばかりではなく、その世界観が科学的に冷静公平でなくて寧ろ信仰と独断的信念に近いから、というのである。之によって一体宗教というものが良いというのか悪いというのか、私には意のある処が判らぬ場合が多いのだが、とに角、マルクス主義は信仰だから宗教だというらしい。だがもし信念を有つということが宗教なら、一切の科学者の主張は宗教的なこととなる。もし信念と信仰とが違うならば、なぜマルクス主義は信念ではなくて信仰だと云うのだろう。
 主観的な個人的意識が、信念であるか信仰であるか、之はプロテスタント風に考えれば問題にならぬことであり、又之をカトリック風に考えるなら、もはや個人の主観的な意識の問題ではなくて、教義や儀礼の問題に解消する。そこで個人の心情に基くと考えられるモラル的宗教内容は、この際どうでもよい。安心立命したいものはするがよく、事実迷っているものは迷うがよい。その限り之は私事である。というのは世界の秩序とは関係がないのである。之は宗教学的に云うと重大な宗教現象であるが、私が今問題にしている範囲ではネグレクトして構わない性質を持っている。もし単なる心情における信心がそういうものとして
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