」というものにまで、変って来たのである。観念も精神も意識も、この意味[#「意味」に傍点]というものに帰着する。意味とは事物の存在ではなくして事物の存在が吾々にとって持っている処の「意味」のことなのだ。勿論事物自身とそれが有つ意味そのものとは別であるが、実際は事物が意味を有つ[#「有つ」に傍点]という一つのリアリスティックな関係が大切なのだ。
処が現代の観念論の最も進歩した形のものは、この意味を事物そのものから脱臼して、意味は意味同志、他の「意味」との関係に置かれることを、最も手際のよい哲学的理論と考える。それが解釈[#「解釈」に傍点]ということであり哲学的説明[#「哲学的説明」に傍点]ということであって、この際事物に当るものは、もはや事物ではなくて意味の所有者という資格を新しく与えられた「表現」というものになる。初め事物が意味を持っていたのに、今度は意味がその担い手であるものを生産して之を表現と名づける。表現はもはや事物ではない。茶碗は手工業によって粘土から造られたものであるなしに拘らず[#「あるなしに拘らず」に傍点]、とに角時代や民族や社会の生活の一表現[#「一表現」に傍点]に他ならない、ということになる。
でつまり、事物の実在の世界[#「実在の世界」に傍点]と意味の通用の世界[#「通用の世界」に傍点]とが区別されることによって、事物の物的存在は表現の意味的表出に変って了ったわけだ。ゲーテはイタリヤ旅行に際して、歴史上のローマも亦一つの自然であると云ったが、この観念論の方はローマの水道も亦一つの意味の表現である、と云うことになる。なる程そう云えばローマの水道が或る人間的意味を現わしたものであったということは云い現わされるが、ローマの水道の表現する意味とポンペイの壁画やアレナの廃趾が表現する意味とを、この観念論はどう結合しようとするのであるか。高々ローマの工学的精神と淫蕩振りとを結びつける他はない。要するにローマの文明自身を以てローマの文明現象自身を説明するわけである。
このようなロジックは今日の発達した観念論に特有なロジックだ。表現の論理学とも意味の論理学ともいうことが出来よう。観念論の論理を単に形式論理学という側面からばかり把握してはならぬ。解釈の論理こそ今日の観念論の論理だ。そこでは意味と意味との連関だけが解釈される。之によって事物そのものの実際的な説明
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