止まることが出来るならばだ。
処が実際には、決してただの心情に止まる宗教はないのである。個人の修養を標榜するように見える修養宗教も、実は忽ち社会的闘争からの脱却を説いたり、社会的不幸の正当化を説教したりせざるを得まい。そういうものに触れない抽象的な宗教的心情や信仰はあり得ないからだ。するとそこに必要なものは必ず、何かの思想体系[#「思想体系」に傍点]である。神学教義なのである。そしてその神学組織たるや、必ず例の神の国の秩序と地上の国の秩序との対立乃至交換というタイプにぞくするのである。そうでなければ、生きた社会科学的知識や文学的知恵の代りに、わざわざ「宗教的」な心情や信念や信仰は要らない筈だったのだ。
既成宗教の有っている習慣、それは歴史的に年の甲を経ていないと、大抵奇怪で野蛮でインチキに見えるものだが、そこに宗教的儀礼のセクト性や非社会性が見出されるので、多くの宗教擁護者は、これ以外の処に宗教の本質を見ようとする。そうすると勢い宗教的な情操か宗教的教理に、宗教の本質を求めざるを得ない。処が宗教的情操の方は、今云ったように、もしそのものに止まるならば社会的内容としては無内容なものだったから、結局に於て宗教の本質はその神学的組織に帰するということになる。宗教の本質をその既成のクルトゥスや情操に見ずに、専ら教義に見ようとするのは、悪合理主義的で又観念的な見地にぞくすると考える向きもあるだろうが、併し観念論と宗教との握手する周知の秘密を明るみに出すためには、ここが宗教の本質とならねばならぬ。
かくて観念論は本質に於て宗教的神学なのであり、宗教はそしてその本質に於てこの観念論的な神学なのである。文学現象も道徳現象もあるように、社会的に眼に見える形態を取った宗教現象のあることは云うまでもないけれども、又文学も道徳も思想であるように、宗教も一つの思想である。その限り元来宗教は哲学なのだ。そこでその思想の体系がなくてはならぬ。宗教的思想体系がロジカルな形をとったものが神学だ。そして夫が取りも直さず観念論の体系のことだったのである。その体系の完全に共通な一般特色を私は述べて来たわけだ。
だが神学が神学の形で栄えることの出来たのは、要するに中世である。という意味は、自然的知恵に於て暗黒であった中世(他の文化について暗黒だったのでは決してない)、即ち社会的環境それ自身が非合理的
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