っても、大丈夫出来ることだからだ。この妖怪めいた皇道主義振りや妄想的な政治的信仰ならば、之を祓い潔めるためには一通の電話と一葉の命令書で充分なのである。
尤も容易しいことを敢行したからと云って批難する人間はいない筈だ、これはやさしいことであったには相違ないが、その効果から云えば絶大で徹底的な意味を有っているのだから、やはり吾々は大いに喜ぶべきだろう。と云うのは、大本教が弾圧された結果、大本教と普通の宗教とを加えて二で割ったような偽似怪教とでもいうようなものが生長するのではなくて、大本教の宗教行為だけではなくその精神や意図そのものまでが、完全に合法性を失って了ったのである。大本教弾圧はその意味に於て大本教に取っては完全に零化かマイナスを意味する。大本教はいい気になってばかりいたため、その精神を何とか活かすためにみずから、予め不敬な点や治維法違反の点を整理する建前を取って見せることに気づかなかったから、今回のような徹底的な失墜を招いたのである。もし大本教にしてもう少し尤もらしい自己統制を行なうことが出来たら、この世の中は却って益々大本教的になって、その精神や意図が実質的に実現出来たかも知れない、危い処だった。
何年の何月何日に建直しが行なわれるという代りに、徐々に建直しが行なわれたり何かするのだったら、世の中は知らぬ間に大本教のものになって了ったかも知れない。而も世間の人間は夫が一向大本教的であるとは気がつかぬかも知れない。邪教や妖教的になったとは思わずに、ノルマルに宗教的になったと世間では考えるかも知れない。――処が幸にしてそこを大本教は覘うことを知らなかった。併しもう片づいたのだから少なくとも大本教に限っては、心配は無用だ。大本教は非常時主義[#「非常時主義」に傍点][#底本では「教は非常時」に傍点]から見事に落伍したのだから。
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27 ブルジョア哲学とその宗教化的本質
今日のブルジョア哲学は、いうまでもなく、殆んど総て観念論である。観念論という規定は言葉としては稍々マンネリズムに堕した感がなくはないが、併し今日夫が意味する内容に就いて云えば、極めて、生々とした概念だといわねばなるまい。それはあとに述べるとして、今日の所謂ブルジョア哲学というものが何を指すかも、問題でなくはないのである。この点を少しハッキリさせておかないといけないだろう。
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