来の単純な意味ではブルジョア哲学とはブルジョアジーのイデオロギーとしての哲学を指すのである。つまりブルジョアジー階級の哲学であるが、ブルジョアの階級哲学と云ってもいいだろう。ブルジョア階級出身の哲学者による哲学には限らぬ、又ブルジョア階級にぞくする哲学者の哲学には限らぬ。又ブルジョアジーの経済的・政治的・文化的・利害乃至意識を、無意識的又意識的に表現した哲学だけがブルジョア哲学でもない。なぜかというと、現代社会は勿論ブルジョアジーだけで出来上ってはいないが、それにも拘らず資本制の支配する社会なのである。だからブルジョアジーの経済的・政治的・文化的・な利害や意識を、必ずしも直接に云い表わしたものでなくても、それがブルジョア社会の支配的権力と観念的[#「観念的」に傍点]連絡がありさえしたら、やはりブルジョア哲学なのである。ブルジョア社会に於ける政治的支配と平行して支配的な哲学、という意味でも亦ブルジョア哲学の名は価値があるのだ。
日本のブルジョア社会に於て支配的な政治的権力を持つものが、必ずしもブルジョアジー自身でないことは、勿論のことだ。或いは純粋なブルジョアジーは日本のブルジョアジーを代表するものではないと云った方がいいだろう。封建的・軍義的・官僚的なファッショ(日本型ファッショ)が直接の支配者である。だからもし、ブルジョア哲学なるものを、ブルジョアジー自身の、又は純然たるブルジョアジーの、哲学に限定して了うなら、日本に於けるブルジョア哲学は、極めて数が少ないか或いは極めて微力であるか、それとも全然今はないとさえ云っていいかも知れない程だ。では今日の多くの日本主義思想乃至哲学、東洋的神秘主義と見做されているもの、其の他等々はブルジョア哲学ではないのか。少なくともそういう日本ファッショ哲学乃至日本ファッショ的哲学は、このブルジョア制社会に於て、支配的なのだが、そういう支配的な哲学はブルジョア哲学ではないのか。ブルジョア哲学が、単純にブルジョアジーの哲学だと云って片づけられない所以である。
西田哲学がブルジョア哲学か、それとも封建的哲学であるか、という問題が出されたこともあるが、この設問はだから同じく誤っているのである。日本の多くのブルジョア哲学が封建的な関心なしにはブルジョア哲学になり得ないということが、大切な要点だ。つまり日本のブルジョア社会に於て、その政治的支
前へ
次へ
全226ページ中205ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング