になったので、こういう犯罪に陥ったといった方が正しい、というまでである。
 勿論この犯罪の実質は決してただの個人的な性質のものではない。この場合に限らず一般の犯罪はそういうものだが、しかし普通の場合には犯人個人の立つ社会的バックは問題にしないことになっているのに、今の場合は信徒二百万と号する教団という特別のグループと宗教教理という特別な運動原理が控えているおかげで、問題は個人から一種の社会的バックにまで一続きのように受け取られ易い。当然これはしかあるべきもので、普通の場合にそれを社会的条件にまで遡源させて見ない方が間違っているのだ。――当局は教理に不敬がありはしないか教団会計に横領がありはしないか、と見ているのであり、またひとのみち教団が宗教行政に適応するために名目上自分でその一派と名乗っている扶桑教にも検察の眼を向け始めたものである。
 大本教の検挙はこれとは趣を異にしていた。大本教の検挙の法的根拠はその教理内容の実際が不敬にわたることだった。不敬というのは国体と観念的に相容れぬことであり、それというのも実は却って国体の不敬な模倣であったからであり、つまり似寄っていたからであるが、この点になるとひとのみち教団の教義内容も極めて国体主義的なものなのだ。恐れ多くも教育勅語がその教典の一つになっている位いだ。その点教育関係の当局や有識者の大いに参考になる点だが、しかし教育関係者がなお安心してよい点は、ひとのみち教団はまだほとんど何等の政治的綱領を有っていないらしいということだ。そこでまだいわゆる不敬にならずに済んでいるのである。
「ひとのみち」は宗教的世界征服計画は持っていない。これが大本教と異る処であり、またこの頃日本で流行の大陸教や南方教と異る処だ。禅宗僧侶の出身と伝えられる「おしえおや様」御木氏は、もっと市井猥雑の間に行なわれ得るものを以てした。夫婦の性行為を強調する処の性的宗教と見なされて来ているゆえんである。でひとのみちの刑法的価値は、今の処思想警察関係というより、風俗警察関係にあるというべきだろう。
 ひとのみち教団は類似宗教の公式的典型だ。こういっても私は別にひとのみち教団だけを特別に悪いと考えているのではない。悪いのはいわゆる新興宗教全体であり、それよりもっと性の悪いのはいわゆる正信や既成宗教や宗教圏外の権威を持つ宗教的信念であるのだが、ひとのみちは偶々
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