正直にも[#「正直にも」に傍点]、この悪いものの代表としてみずから買って出たものであって、この点むしろ極めて誠実な犠牲的なそして天才的ともいうべき現代「宗教」なのだ。
ひとのみちにはキリスト教や仏教のような文献上や文学上の長所がない。だから宗教学者のいう「宗教的真理」を持ち合わさない。品も悪く柄も悪い。しかし下等な人格や品の悪さにも拘らず美人というものがあるように、恐らくこの宗教にはある甘美な風俗感を催させる何かがあるのだろう[#底本では「あるだろう」となっている]。そこに問題があるのだ。
二[#「二」はゴシック体]
たとえば、類似宗教に数えてしかるべき「生長の家」の谷口氏は、一種の文学的才能をもっている。講演したものを読んでみると、一種キリスト風のソフィズムを感じるのである。倉田百三氏の『出家とその弟子』などと、ジャンルは別だが文化的本質を同じくしているだろう。既成大宗教もその阿片的魅力の大部分は実はこういう文学的[#「文学的」に傍点]な魅力であることを、注意しなければいけないと思うが、処が「ひとのみち」になると(天理教や大本教でもそうだが)そういう文学的魅力はまるでないのだ。
通り一遍の文化人は、この非文学的な宗教を見て、一遍に軽蔑してしまう。そしてこれこそインチキ宗教のインチキたる証拠だと考える。そこへ持って来て、猥雑な観念とデリカシーを欠いた趣味の悪い実践とだ。いよいよインチキだということになる。――だがこうした点はインチキ宗教のインチキたる症状ではあっても、そのインチキ性自身ではない。発熱は病気の症状だが、病気の本質ではない。熱が出ずに次第に命を落とす病気も多い。文化人の趣味や嗜好にとってインチキに見えないようなインチキが沢山あることを忘れてはなるまい。だから「ひとのみち」だけがインチキ宗教なのではなくて、たまたまそれが露骨なために、宗教なるもののインチキ性を思い切って露出したまでだというのである。
しかし社会の既成観念の秩序が乱れて来ると、教養あり教育ある人間も、その趣味や嗜好ではもうやって行けなくなる。その趣味や嗜好の洗練が物の役に立たぬとなれば、文化人も平俗人も結局同じものになる。でそこに、一種風俗感を催情するものとして立ち現われた「ひとのみち」やこれを典型とする一連の類似宗教は、識者と無識者とを問わず、斉しく風俗的魅力を有って来る
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