行かないわけだし、それだけでなく、既成の社会的信用(?)のある世界的宗教の批判にも不便を感じるだろう。
 宗教は一般に精神主義の原型をもつものであって、仮にその形而上学的神学組織が、物心の対立を超えたものである場合にも、その神学組織の実際的運用に於ては、忽ち精神主義の原型に帰着する。世界の物的変革という手段が理論的に必然だということを極力否定するか、それともそういう課題に絶対に近づこうとしない。最も革命的であった原始キリスト教さえも、宗教としての興味は之とは全く別な処に横たわっていたのである。
 処がこの精神主義の原型は色々の形を取って現われる。その一つの現われ方が、御利益主義であって、之は観念上の信心や出来るだけ極度に安易な物質的運動である処の呪文おまじない其の他によって、要するになるべく観念的な近道によって、極めて複雑な物質的運動の結果である処の物的利益を結果しようという、超越的な観念的因果関係の設定のことなのである。無病息災・成功出世・其の他のこの物的利益が、精神的ではなくて露骨に物的である処に、元来の精神主義という宗教的原型とその特別な一発現形態との間の、一種の矛盾を感じさせる。そこで、之がインチキな宗教のインチキたるの一要因と見做されるわけだ。
 もし得られる予定になってる結果が精神的な御利益ならば、それがどれ程功利的であり打算的であろうと、元々精神の一手で綺麗[#「綺麗」は底本では「奇麗」となっている]に片がつくので、建前上の食い違いがなく、決してインチキには見えない。どんなに荒唐無稽であろうと、正しい信仰である資格をもつことが出来る。元来荒唐無稽であるとかないとかは、精神界だけに止まっている限り問題にもならぬのであって、どんな妄想を懐こうとその内容が純精神的なものに限定されていれば、決して狂人とは認められない。処が俺は神の子であるというような肉体的因果づけなどを主張し出すと、大分怪しくなって来る。自分は神であるとか私は神に会ったとか云い出すと、初めて狂人と見做される。そしてもしこの妄想自身が物的御利益を明らかに伴うならば、彼はもはや狂人ではなくて正にインチキ師と見做されるのである。
「生長の家」のように、一種の宗教運動――精神主義運動――を標榜しながら、それが最も近代的な物質利益の追求の一形態である株式会社活動である時、この矛盾はそれだけで又インチキの
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