に、之とは異った説明をインチキに就いて加えておいたのである。
 現に今は、大本教がインチキだと世間から見られているのは、殆んど趣味や教養の問題としてではなくて、大本教の僣上沙汰にあるのである。つまり王仁三郎や大本教そのものの社会的比重に就いての測定にインチキがあるのである。処が前に云った通り、凡そインチキ性は全く合理的で理性的な存在理由があったのである。スウィフトの『ガリバー旅行記』やモリエールの『人間嫌い』やゴーゴリの『検察官』が当時の社会との関係に於て極めて合理的で理性的で従って現実的であったように、王仁三郎の「大本教」も合理的で理性的で現実的な社会的根拠を有っている一つの風刺的存在だ、と云ってもいいだろうと思う。
[#改頁]

 23 宗教のインチキ性とは何か

   一[#「一」はゴシック体]

 新興宗教乃至類似宗教と呼ばれるものが、今は、インチキであるとか邪教であるとか云われているけれども、特に新興宗教や類似宗教だけがインチキで邪教であるというわけではない。「インチキ宗教」に対する攻撃に興味と利益とを感じるものが既成宗教業者に少なくないらしいことは、この攻撃の仕方にとって、根本的な反省を要求する事柄であって、やり方の如何によっては、却って既成宗教の擁護に何より役に立つ結果になるだろう。そういう意図に於て類似宗教攻撃を行なおうとするのが、当局の方針であるように見えるし(宗教団体法案・宗教教育問題・大本教検挙・天理教検挙)、世間の常識的通念であるように見える。だが勿論、之は「インチキ宗教」攻撃の本当の形であってはならぬ。
「インチキ宗教」批評は一般的な宗教批判・反宗教運動の一環として初めて、科学的な意味があるので、そこまで行かない形態のものは、全く反対な効果をしか現実上持っていない。これは少し事情を省察する労を惜まない人は誰でも気のついていることで、今更私がここに持ち出すまでもないことだが、併しそれでは凡ての宗教がインチキであり所謂邪教であるかと問われると、簡単にそうだと云っては済ませぬものがあることを注意する必要がある。キリスト教や仏教が「ひとのみち」や大本教と同じ意味に於てインチキで邪教であるかというと、決してそうではないのだ。
 だから「インチキ宗教」とか邪教とか呼ばれる、その言葉の意味をもう少し分析してかからないと、所謂インチキ宗教の批判は勿論充分に
前へ 次へ
全226ページ中183ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング