学試験で夢中になっているマダム達が沢山出て来るのである。――それから「真理運動」の賛成者を統計で見ると、商人の次にはサラリーマンであって、仏教的教養のあるインテリ専門かと思うと、必ずしもそうではなくて、単に小市民層向きだと云った方が当っているようだ。勿論サラリーマンは範疇として[#「範疇として」に傍点]はサラリーマンであって範疇としてのインテリゲンチャではないのである。
 新興宗教が多数のインテリを動かしていることは事実だが、それは正に小市民としての資格によるものだと見るべきだろう。それはあまりインテリ向きに出来ていないという事実を見落してはならぬ。処で実はそこに、その一種の無教養・無伝統・歴史的権威の欠如・という処に、新興宗教が所謂「インチキ」と考えられる一つの理由が伏在しているのである。自分でインテリだと思っているインテリは、キリスト教とか仏教とかいう歴史的伝統の権威を持ったものでなければ、教養あるものとは認めない。注釈と解釈とによって文化的財産の形をとったものでなければ、信用しない。そういう歴史的距離を距てて見なければ、一切のものは成り上り者に見えるのである。彼等は原始キリスト教や原始仏教そのものは承服出来ない。ただそれが今日から解釈され注釈されて初めて、価値を認め得るのだ。そうしない限りはインチキなものなのである。――彼等は文献学的文学的古典を至る処に求める。そういう意味に於て、古典的文献としての威厳のない宗教は凡てインチキなのだ。
 新興宗教は少なくとも高級なインテリの文化的[#「文化的」に傍点]要求を満足させない。大本教や天理教の聖書は文学的[#「文学的」に傍点]価値を持たぬ。まして「ひとのみち」のものをやだ。谷口雅春や友松円諦の書くものは多少文学的価値を有つかも知れぬ、だが夫は古典的[#「古典的」に傍点]価値を持たない。――彼等の宗教的情緒を満足させるものは寧ろキールケゴールであり、優れた「文献学者」だとかいうニーチェだろう。価値のあるのはこの歴史的な形而上学[#「歴史的な形而上学」に傍点](!)だ。之に較べれば「お振り替え」(ひとのみち)や「思念」(生長の家)や「真理商店」(真理運動)などは何と形而下的でインチキであることか。――だがこういう点から、或る宗教がインチキであるかないかを決めるのは、真理としての問題ではなくて趣味と教養との問題だ。私は初め
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