称号に値いすることとなる。そして宗教運動が資本主義的ジャーナリズムにすりかえられるという処にも、食い違いがあるので、ここからも重ねてインチキの称号が尤もに見えて来る。

   二[#「二」はゴシック体]

 元来インチキという俗語の指すものには二つの場合がある。第一は意識的に相手の眼をゴマ化すことであり、第二は知らず知らずに恐らく自分の主観的興味から、事物の客観的な公正を無視することである。自己宣伝のインチキにしても、自分の社会に於ける比重の小さいことを知るが故に之を大きく見せかけようとする場合と、自分の社会的比重を客観的に見境づけ出来ないために、当然のことのように自分を誇大に示そうとする場合とが、あるだろう。後者の方が寧ろ不健全な憐むべきインチキ性だが、いずれにしても、客観的なプロポーションの無視から来る食い違いが一般にインチキというもので、この食い違いがバレると、初めてインチキ性が露出するのである。
 宗教、特に類似宗教のインチキ性も亦、正にこうした云わば数学的とも論理的ともいうべき性質のもので、之は社会の常識的通念(之は主として平均値的に小市民の常識に相応するのが普通だ)にとって、的確に検出出来るものだ。
 処がこの小市民的社会常識なるものは、云うまでもなく甚だ怪しげなものなのである。というのは今日の小市民的常識によると、大ブルジョアとは違って、社会は甚だ精神的[#「精神的」に傍点]に捉えられているのである。つまり資本家的な企業のカラクリの内部には全く身を置くことの出来ない小市民は、この資本主義社会の物的本質を身みずから実証する機会も能力も頭の内に持ち合わさないから、その代りに、この社会過程を、最も手っ取り早く安易に、一遍に片づけて了えそうな、精神的解釈を採用したくなるのである。ブルジョアジーは社会の精神的本質などは決して信じてはいない、ただ信じたような顔をしているだけだ。処が夫を本気で信じているものが小市民なのである。
 さてこの小市民的社会常識は、社会の精神的本質を説く宗教、そして社会の精神的利益を説く宗教を、もはやインチキとは看破出来ないわけである。社会の精神的利益なるものが実は社会の物的利益のことであるという秘密は、彼等によると社会そのものが精神的なのだから、到底気がつかない。かくてこの種の宗教は、真の宗教であり、宗教の真面目だということになる。既成の
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