チキとはどういうことか。この俗語は二つの場合を指している。一つは事物の客観的な力関係乃至比重を、主観的な利害やひいき目から、実際に見誤ることであり、もう一つは夫を故意に他人に見誤らせるように仕向けることである。自分をえらそうに重大そうに見せるのにも、実際自分をそう思っている場合と、実際には自分のえらくなさ[#「なさ」に傍点]や小ささを知っているが故にわざと大きく見せようとする場合とが区別される。寧ろ前者の方が性格薄弱者や性格破産者のみじめなインチキさであるが、併しいずれにしろ、事物や人間関係の客観的に公正なプロポーションをうぬぼれや利害感から、ゴマ化すことが、インチキということの哲学的或いは論理学的な本質なのである。
 観念と物質との客観的比重を無視して、精神主義を強調するものは、元来それだけでインチキなものであるのだが、併し忘れてはならないことは、観念と物質との比重も、之を純観念的に測定する限り、少しも比重のゴマ化しは暴露しないですむのであって、従ってどんなに荒唐無稽な体系でも教義でも、それが純精神的な世界に終始する限り、インチキに見えずに済むものだ。だから修養とか精神鍛錬とか肚をつくるとかいう限り、一切の宗教はインチキでなしに却って尤もに見えるわけだ。処が自分は神を見たとか観音様に会ったとかいう物理的生理的因果関係を一枚入れると、夫はすでに観念と物質との物的比重に解かれるので、そこで初めて、この人間は山師かそうでなければ狂人ではないか、と気がつくのだ。或る男が海面をノコノコ歩いたと書いてあれば、之はどうも眉唾物だという事になる。思念一つで一切の病気が治ったり、不幸が他人へ身替りしたり、ポンプの水が出たりするという証言は、どうもインチキだということになる。
 その意味に於て治療と結びついた宗教教義や宗教行為が、最も容易にそのインチキ性を暴露され得るので、之がインチキ宗教なるものの定義でもあるかのように、既成宗教業者達は云うのであるが、併し之は単に自然科学的な物質的認識に於ける事物の客観的比重をゴマ化したからそう云われるまでで、同じく物質的認識に於ける事物の客観的比重をゴマ化すにしても、その認識が社会科学的なものになると、この支配者社会自身の社会科学的認識の常識そのものが初めからインチキに出来ているので、インチキ宗教と呼ばれることを免れ得ているのである。真理を行う処
前へ 次へ
全226ページ中179ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング