制令の矛盾[#この行はゴシック体]

 現在スポーツで人気のあるのは、何といっても野球であり、而も学生の野球である。併し独り野球に限らず、一般にスポーツが人気があるということは、単に学生に特有な集団生活と閑暇生活とからの結果偶々学生界に於てスポーツが盛んであるからばかりではない。人々が学生スポーツに於て期待するものが、スポーツそれ自身にあるのではなくて寧ろ学生生活そのものの一表現がスポーツだという処にあるからである。
 勝負・賭け・遊戯・体育・といったスポーツのもっている各種の意味が、偶々実社会から隔離された教育対象である学生の生活条件とよく一致することから、特にスポーツが主として学生生活の一表現と見做されることになるのである。学生野球ファンは事実、銘々の選手や各チャンスに就いて、野球のスポーツ技術に興味を持っているように見えるが、実はそういう興味の裏を一貫するものは、実際社会から何かの意味で隔離された学生の世界に対する世間の興味なのであって、「社会」に労《つか》れたファンはそこに一種の心安さを見出すのだ。或いは単にそういう興味を純スポーツ的な興味だと幻想するのである。
 学生野球、否一般に野球は多分一高から始まったと思われる。之はいうまでもなく野球技術からいえば素朴で、幼稚極まるものであったが、夫は単に野球の発達が若かったことを意味するばかりでなく、野球がまだ純スポーツの意味を有たずに単に学生生活の一表現という意味を有ったに止まる、ということを意味する。六大学リーグ戦乃至中等学校野球大会以前の野球の興味の中心は早慶戦と一高対三高戦とであったが、之は全くスポーツとしてではなく「学生運動」としてそのファンを獲得していたのだ。
 六大学リーグ戦でも併し一応、この「学生運動」としての野球が依然として基本的な興味をなしている様に思われる側面が著しい。その証拠に、仮に六大学のチームが単にABC……Fという六組の混成チームだったとすれば、一体何人金を払って之を見に行くか疑問だろう。
 処がこの学生運動としての野球に対する興味は、言って見れば、甚だ他愛のない薄弱なものなので、野球が技術的に発達し、又ファンの眼が肥えて来るに従って、夫は自然と怪しくなって来る。そうして興味の中心は学生生活から純スポーツ技術に移らざるを得なくなる。少なくともそうした純粋な野球ファンが発生するのである。
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