こうやってスポーツは、企業家の手や日本精神家の手に依って、文部省の懐ろを離れて行く。スポーツは今や愈々「体育」ではなくなって来たわけである。或いは依然として体育であるかも知れないが、夫は日本精神か資本家企業かの手段としての体育となった。少なくともスポーツ実行者自身の体育や自己発達や風俗的快感や社交的娯楽とは全く別な目的の為の手段となった。スポーツはもうそれ自身に於て喜ばしいものではなくなった。スポーツはそれ自身に神聖なものではなくなった。ただ祭壇の犢が神聖だという意味に於てしか神聖ではなくなった。
明治神宮体育会の系統が民族主義的スポーツ団体だとすれば、之に対立する国際主義的スポーツ団体は国際オリムピック系の日本体育協会だろう。処が一頃明治神宮体育会系が甚だ賑かであるに引きかえ、国際オリムピック系はあまり華やかではなかった。オリムピック後援会なるものが出来てその会長に内田鉄相が就任したが、氏はベルリンにおける第十一回大会に遠征軍を派遣すべき資金の調達に就いて、各方面の援助を懇望している。だが、それにも拘らず国際オリムピックは、その場に臨むまではあまり朝野の関心を惹かなかったのだ。野球団はベルリン辺りまで出かける費用を節約して、その資本を協会にでも献金した方がいいと考えたような次第であった。――だが第十二回オリムピックの東京開催が決定するに及んで、オリムピックの人気は俄然台頭して来た。処が、それはスポーツとしてではなくて正に国威発揚の一手段としてであったのだ。
だが、こういう途方もなく歪曲された条件の下に於ても、スポーツそのものは、まがりなりにも急速な一応の発達をするものだ。夫は丁度、官許の展覧会によってアカデミックな美術がすばらしい発達をすることと別ではない。不純極まるスポーツも、実は立派に発展したスポーツたるを失わない。併しそういう意味で発達したスポーツは、純粋スポーツ(?)としては、どんなに水準が高くても、時間も場所もスポーツ用具も有たない日本の勤労大衆一般にとって、本当は何等のスポーツでもないのだ。――之に無理に厚意を有とうとすると、所謂ファン[#「ファン」に傍点]というものにでもなる他はない。サラリーマンなどは、この勤労大衆の欝憤を晴らすために、一同に代ってスポーツ・ファンとなるのである。彼等にはその程度の余裕ならあるからである。
三 学生野球統
前へ
次へ
全226ページ中174ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング