ける教育的効果の多少のものはどのような場合にもなくはないが、それを理由にしてこの教育の全体を是認することは出来ぬ。
 でこういう理由から、私は現代の学校教育(下級教育から高等教育・大学課程までも含めて)はなるべく早く切り上げて、少しでも早く社会教育と之に基く自己教育とを被教育者に任せる必要があるとさえ考えるのだ。――ただしここで条件をつけておかねばならぬのは、こうした社会教育乃至自己教育を、卒業後もなお依然として、否益々、有力に又誤たずに実施し得るだけの能力と見識とを与えることは、あくまで学校教育の責任であり、或いは寧ろ、学校教育を利用[#「利用」に傍点]しながら之を蝉脱すべき、高等被教育者の自己責任だ、ということだ。学生や生徒は、どんな教育方針の下にあっても、少なくとも大学や学校に於て、研究法と勉強法と読書法とを獲得すべきなのである。
 処が又、この社会的教育なるものが、今日の日本では学校教育以上に不誠実なものなので、却って之をはね除けつつ之を利用[#「利用」に傍点]するだけの見識と能力とを、学校教育から吸収せねばならぬ位いだ。――だからこうなると、実は、強ち学校教育の年限さえ短縮すればよい、とばかりは云えなくなるのである。要はつまり、学校教育の年限の長短[#「年限の長短」に傍点]ではなくて、学校教育の本質の改革[#「本質の改革」に傍点]如何に関わるのである。そんなことは判り切ったことではないかと云うかも知れないが、併し文部省的(夫が又師範的なのだ)教育観念に対しては、之は相当こたえる[#「こたえる」に傍点]結論なのである。と云うのは、文部省では教育は実質に於て半年一年という零細な年限を単位にして評価されるのであって、人格教育とか情操教育とか其の他云々という教育の本質(無論そんなものは教育の本質などではあり得ないのだが)の方は、全くのつけ足しだということが正直な肚だからだ。
 さて以上は、教育という観点から教育年限・教育制度を問題にしたのであったが、例の経済連盟の高等教育改善案(実業教育改善案はその本質に於て之だ)は、全く別な観点から問題を取り上げている。経済連盟のブルジョア代表達は、専ら彼等の使用人の生産[#「使用人の生産」に傍点]という観点から、この問題を提起するのである。そして夫が、文部省が経済連盟に対して教育制度に就いて諮問した(一寸意外な)意味なのである
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