、この教育的効力なるものは信用ならぬ。処で一体中学校では、吾々が日常生活しているこの社会の産業や経済の基本的な常識をどこで与えて呉れるか。人間の科学的思想の点で活きた好さを一体どんな教師が生徒の胸にたたき込むか。文学的頭脳や読書法が誰が授けて呉れるのか。無意味に瑣末な歴史的トリビアリズムや、地理学的雑多や、方程式の解法の形式的な習得や、真理への興味を殺すための修身や、卑俗なブルジョア社会の通念を尤もらしく見せる公民科、などしか、そこにはない。――中等学校で本当に教育されるものがあるとすれば、夫は全く、例外に自分自身を教育し得るような、すぐれた素質の生徒だけだ。あとはただ五年なら五年という年限の来るのをブラブラと待つだけなのである。
 こういう中等学校などは早く切り上げて、もう少しは生きた人間的教育や又少なくとも専門的教育を施すような上級の学校にサッサと這入って了った方が、確かに教育的効果が絶大と云わねばなるまい。そういう点で私は、中学校の本質が今日のようである限り、五年よりも四年、四年よりも三年の方が望ましい年限だとさえ考える。――中等学校が入学試験の予備教育であるかのような観を呈しているという弊は、今日の中学校教育の当然の本質的な帰結であって、元来教育的な内容を持っていないものは受験準備の機能でも営む方が、まだしも増しなのである。

 こう云って来ると、如何にも高等学校・専門学校以上の教育は、中等学校のと較べて、立派であるように聞えるが、決してそうではない。ただ教育の師範学校的観念は、低学級になればなる程意義をもっているので、小学校よりも中学校、中学校よりも高等学校乃至専門学校、それよりも大学という風に、段々師範的教育観念は無意味に帰するので、即ちそれだけ上学級になる程、学校的教育から被教育者の方が自由になって、社会的な自己教育に依存して来るのである。だから、学校的教育の弊害や悪作用は、高等教育に進むにつれて段々薄くなる、というわけだ。――だがそれにも拘らず、生徒や学生の社会的自己教育を、出来る限り妨害して、学校教育(夫は結局師範教育を典型とする)の独占に帰せしめようとするのが、今日の高等教育の方針なのである。無論どんなバカげた方針に基く教育でも、それが強制するイデオロギーの媒介物になる客観的な実質のあるものは、曲りなりにも教育され教え込まれるから、本来の意義に於
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