。経済連盟のブルジョア代表達は、何と云ってもこのブルジョア社会の当の主人であり選手なのだから、先生や文部省のお役人とは違って、教育というものを社会に於ける一つの実体として見る術を心得ているわけで、被教育者に対する人間教育というような抽象的なセンチメンタルな教育学的イデーなどからは、立派に解放されている。ブルジョア社会に於ける教育を最もよく知るものは、教育家でもなければ教育行政家でもなくて、正にこのブルジョア代表の卓見なのである。
 だがこの卓見の内容には色々の動機が連関して含まれている。ブルジョアジーによれば、学校乃至大学は、ブルジョアジーの広義に於ける使用人を生産する施設に他ならない。官吏を養成するのも学者を養成するのも、サラリーマンを養成するのも、つまり社会に於ける知的な活動分子を生産することに他ならず、夫がブルジョアジーが広義に於ける使用人生産の一つの場合に他ならない。之が彼等によれば、実際社会に役に立つ[#「実際社会に役に立つ」に傍点]教育ということの意味だ。
 処がこの実際社会に役に立ち方が、時代の生産条件と共に変化する。一頃の日本では、生産の資本家的組織にとって最も必要だったのは、支配・管理・労働・の技能ある幹部であった。幹部はその人間圧力から云っても、一般勤労者とは差別された特色又は優越のレッテルを持っていなければならない。それが大学[#「大学」に傍点](帝大・それから官立大学・それから公立私立の大学)、経済連盟で総合大学[#「総合大学」に傍点]と呼んでいるものの、卒業生であったのである。
 だがこの幹部の新しい部署が段々減って来なければならぬにつれて、大学出のインテリ失業問題が起る(尤も之は実は一般の失業問題の一環にすぎないのだが)。そこで当然この資本社会の代表者達は、そういう幹部(学士)生産に対する生産制限を答申せざるを得ない。そうでないと、インテリの失業という(多分資本家自身にも責任のある!)社会問題が発生するからだ。――金のかかる(国費も要れば息子の学資も要るし、それに大事な点は雇い入れるにも専門学校卒業生より少しはサラリーを余分に出さねばならぬ)不経済な総合大学[#「総合大学」に傍点]が無用である所以だ。――まして国費をかけて国体に反するような教授や学生を出す大学などは、無用の長物だ、というわけである。
 資本家の教育理論は、教育フールのセン
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