愚劣でない教授の方は助かるというものだ。処が教授連盟の代表者の主張によると「大体外国には学者をバカにする芝居がよくあるようだが、日本では決して許されない、今後厳重に監視する心算だ」というのである。こう主張している教授を主人公とするような喜劇が、今日の日本では社会的に大いに必要なのだが。
一体教授達が、ホンの僅かなことに侮辱を感じたがるのは、云うまでもなく、彼等の先生意識[#「先生意識」に傍点]からである。つまり教授といったような先生業は、その生業が成立する条件として、或る何かの社会的威厳を必要とするのである。この威厳が保てないと商売にさしつかえを生じるわけなのであるが、併し威厳の必要な職業は他にも沢山あって、将校や警官、又上級官吏や社長や課長から、凡そありとあらゆるものを含んでいる。この内特に知能的な指導力がこの威厳を裏づけていて、そして特に又、この威厳ある知能的指導力が同時に相手の弱点に食い入る支配力を意味する時、初めて先生[#「先生」に傍点]という身分が発生するのである。弁護士・医者・代議士・売卜者から所謂先生である教師に至るまで、皆そうした条件を持った限りの威厳業を意味している。――で例の大学教授連盟も、もしこうした一種の威厳業組合か、又は威厳業ギルドであるなら、歌舞伎座へねじ込むのも商売上大いに必要なわけだろう。
教授や先生が一種の威厳を条件にする威厳業だということに対して反対する人は、今日教師達がどこの学校に於ても、皆夫々教員職業組合を結成しているという事実上の意義を理解しない人だ。学生生徒の行動から学校問題が発生する時、学生生徒の集団に対していつも正面に押し出されて来るものはこの威厳業組合だということを注意すれば、この点はすぐ判るだろう。――一体今日、学の自由を叫んだり叫ばなかったりする大学のユーニヴァーシティーなる名前は、中世のカトリック教会学校関係者の職業組合を意味する言葉であって、今日の大学は実は、こうした中世大学に対抗して起きたブルジョアジーのアカデミー[#「アカデミー」に傍点]が変質したものなのだが、その名前には依然この中世の「ユーニヴァーシティー」を冠している。そして大切なことは、この教職組合=ユーニヴァーシティが、今では学生とは全く独立した組織となったことだ。大学の学生はこの二十世紀的ユーニヴァーシティには入れてもらえないのである。
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