重要産業工場への進出も、今は帝大だけが享受する特権ではなくなった。学究的な水準から云っても、あまり大した区別を両種の大学の間に見出す事は出来ない。――尤も之は歴史の波の割合大きなうねりに注目する限りそうなので、もっと微細な顕微鏡で臨めば、以上の点だけを限って見ても大いに私大と帝大との差別はあるのだが、併し二つが段々その実質上の資格に於て接近しつつあるという方向は、その際にも依然として動かない処である。だからもはや今日では、私立は自由で帝大は官僚的だ、などという世迷いごとは通用しない。帝大は官僚的な圧迫に対しては甚だダラシがないが、同時に社会的市井的な圧迫に対しては私大が最もダラシがない。帝大は市井から制約を受けることが少ないが、それと同程度に、私大は官僚的制約から依然として自由だ。例えばだから現代日本のファッショ的圧力に対してどれが強くてどれが弱いなどとは云えないのである。
にも拘らず一つ見落すことの出来ない違いは、帝大には殆んど名目上に過ぎぬとは云え教授会乃至評議会としての大学自治組織があって、それが対政府的にも対社会的にも、又対学内的には無論、或る程度まで効力を有っているという点だ。之は帝大教授の一種の学術的実力(有態に云って一般に帝大の教授の方が私大の教授よりも今でも少し学究的に水準が高い)と相俟って、一種の自信を、少なくとも過去に於ては産み出した。と同時に、官僚的政府的支配は帝大に対してヒエラルヒーを通じて間接にしか伝達されないということもここに関係している。――処が私大には実際上教授団のそうしたギルド的抗争組織は発達していない。私大の法人の理事である私大経営者乃至企業人は、教授に対して直接に又各個にさえ交渉を有つことが出来る。私大教授が大学当局に対する態度は、帝大教授が大学当局或いは寧ろ文部省当局に対する態度に較べて、決して尊敬すべきものとは見えない。
教育営業の意味を何と云っても脱することの出来ない私立大学は明らかに一つの利益団体である。この学校会社の最後の株主は、仮に各人の持株の数は少なくとも、所謂「校友」乃至「先輩」なのである。大学当局者はこの「校友」の代表者であり、学生はその候補者であり、教授は自身校友でない限り一時的な使用人である。ここから特別な「愛校心」が産まれたり、又勇敢な「応援団」が出来上ったりするのである。私立大学生にとっては、仮に自
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