文芸批評だと云うのではない。創作の技法だけを取り出して問題にするのはバカげたことで又事実不可能なことだが、それと全く同じに、これはバカげたことで不可能なことだ。尤もバカげた不可能なことも、実際に出現するというのが事実ではあるが。
最近モラルの問題の一つとして恋愛論が相当盛んである。モラルの興味の中心が恋愛乃至性道徳にあるということは重大な意味のあることで、この意味だけを強調すれば、場合によってはローレンス的な世界観へ行く理由もあるのだが(ローレンスの『恋愛論』――伊藤整訳による――は可なり莫迦げた観察も含まれているが一読に値いするものと思う)、併し一方問題をもう少し方法論的に整備する必要がまだ残されていると私は思う。文学とモラルとの認識論(?)的な連関を探ねて来た私にとっては、なお手前に残された問題がある。それが風俗[#「風俗」に傍点]という問題だ。
風俗に就いても亦、すでに社会科学的な観念は多分に存する。否寧ろ風俗はあまり手近かなもので科学的な考察が忘れられ勝ちだから、却ってその科学的研究は意識的に盛んであると云ってよい。社会学的な実証的研究は乏しくないし、社会科学的な史的研究も少なくない。すでに述べたゾンバルトの『奢侈と資本主義』など、とに角注目すべきものだ。――併し風俗は他人の風俗であるよりもまず自分自身の風俗でなければなるまい。そうなると之は趣味[#「趣味」に傍点]とか好み[#「好み」に傍点]とか云った安価なようなものになるが、併し趣味や好みは良心の端的な断面で、認識や見識や政治的意見さえのインデッキスになる。吾々は理論や主張に濁った不審なものを持っている人間を警戒しなければならないが、之は証明の限りではなくて実は一種特別な趣味判断によるらしい。風俗はモラルの徴表だ。
でこうした意味にまで深められた立場から見た風俗は、文学的な意味に於ける風俗だ。その意味での趣味も亦、文学の本質だとさえ考えられる(シュッキングなどは問題ではあるがとに角そういう主張の見本の一つにはなる)。無論風俗は吾々が旅をして世界の人情風俗を見聞して見たいと思うように、客観的なそして末梢的でさえある肉づけを持った具象物だ。而も夫がモラルの徴表なのである。モラルの感覚的・物的・分泌物が風俗だ。――私は文芸評論の一つの観点として、風俗描写というものを強調したいと考える。今云ったような意味で
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