ての道徳観念が悉されるのではない。道徳が問題になるのはいつも自分というものの日常行動思想が課題になるからだ。他人の行動ばかりを問題にしたがる日本人的お節介道徳は道徳ではなくて寧ろ反道徳だろうが、併しそういう出来損い現象も、つまりわが身に引きくらべて他人の身の上をとや角云うのである。一つの自己弁解である。――そうすると道徳の観念も単に社会科学だけでは片づかないものがあるということになって来る。なぜなら社会科学では個人というものや個人の個性やを論じることはカテゴリー上常に可能だが、併しそのままでは、銘々の自分の我性に基く活動を論じるのに足りない点がある。この我性という銘々の自分の一身上の課題を解き得るような立場[#「立場」に傍点]に立つことによって初めて、道徳の最後の科学的・哲学的・観念が得られると思うが、処がこうした立場は恰も文学する立場なのだから、私は之を文学的な道徳観念と呼ぶことにした。之が第四の観念である。所謂モラル[#「モラル」に傍点]とは之でなければならぬのだ。
 併し私の主張したいもう一つの要点は、この文学的な道徳観念と社会科学的道徳観念との結合[#「結合」に傍点]の問題なのである。所謂モラルを云々する文学者には、この結合に何等の関心を払っていないように見える人が甚だ多い。モラルは何かただの身辺的な私事としての心理のようなものだと考える類がその例だ。処がそんなモラルは実は、お天気加減一つで吹き飛んで了うだろうような空疎で薄っぺらなものだ。吾々はその深刻そうなポーズに惑わされてはならぬ。本当に文学的な真実である処のモラルは、何よりも卓越した、かつ行き届いた、純粋な客観的認識[#「客観的認識」に傍点]によらなくてはならぬ。社会機構の、又自然のヴァラェティーの。モラルは科学的認識を自分という立場にまで高めたもので、現実の反映としての「認識」の特殊な最高段階以外のものを意味するものではない。その意味では科学の対象が真理であるように、文学の対象はモラルなのである。
 で考えるのに、文学作品(創作・評論)及び文芸現象を評論するにも、いつもこのモラルなるものが観察の焦点でなければならぬ。モラルは倫理とも云われているし、又思想と呼ばれてもいいし、又之を世界観と呼び直してもいいのだが、併し文学の内に部分的に含まれている処のそんな倫理や思想や世界観だけを取り出して見ることが、
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