側と警察側との之までの多くの場合の関係を見れば、この弱い商売がどれ程実は強い商売かが判るが、カフェーももし大カフェーとして顔を売って顔役を出すようになれば、それは必ずしも弱い商売ではなくなるだろう。現に大カフェーの要求は警察側の学生閉め出し要求と、一致を見出していたではないか。――すると本当にいつまでたっても弱い商売は例の学生業の方になるわけで、それでなくても学生の要求の最も大きなものが警察側の要求と一致しない場合が多いのに(学生運動を参考)、そしてその点で元来学生は非常に「弱い商売」人だが、それが又ここでも、この要求の別な低級なはけ口に於ても、「弱い」商売人であることが判ったというわけなのである。
だが弱い商売は弱い商売として、なぜ、どこから、その弱みにつけ込む必要[#「必要」に傍点]が生じて来るのだろうか。尤も馬鹿を馬鹿にするのは自分を賢明にするに必要なことで、夫が道徳というものの一種の意味でもあるのであって、学生などというこの弱い商売につけこむことが、官吏の立身出世の種になり、夫が又社会の道徳のためにもなるなら、風紀警察上、或いは思想警察上から云ってさえ、之ほど結構なことは又とないかも知れないのだが。
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16 女性教育の問題
数年前迄の日本の学校教育は、一般的に[#「一般的に」に傍点]云えば可なりハッキリした[#「可なりハッキリした」に傍点]ブルジョア教育であった。一般的にというのは、主に男性に対する教育についていうことであり、この男性教育が学校教育及び社会教育の代表だということである。それから可なりハッキリしたブルジョア教育だというのは、日本の社会自身が所謂半封建的な基礎条件を有っているということに照し合わせれば可なりハッキリブルジョア的であるというのである。なる程尖端的風俗から云うと、鹿鳴館時代の支配層は一時全くヨーロッパ化した。それは云うまでもなく資本主義化したことに他ならない。だがこのヨーロッパ=ブルジョア風俗はやがて速かに清算されて了った。日本に於て社会を制約している半封建的な生産機構が、「上流社会」のこうした典型的なブルジョア風俗を大衆的に支持し維持するだけの条件を、容易には持ち得なかったからだ。風俗が多少とも大衆的にヨーロッパ=ブルジョア化したのはヨーロッパ大戦以後であって、それは実に日本に於ける科学的社会主義の発生と同時だっ
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