封建制的日本ファシズムの思潮は、まず第一にアンチ・モダーニズムの形を取って現われていることを注意しよう。この趣味は無論一種の復古主義を採用するのであるが、夫は同時に往々にして日本流の封建家族制度に基くアンチ・フェミニズム、云わば薩摩隼人式アンチ・フェミニズムを産み出す。この二つはカフェーの存在にとっては大きな敵でなくてはならぬ。親爺達の大部分は決してまだカフェーとモダーン女給との味方ではないのである。処が更に、このアンチ・モダーニズムとアンチ・フェミニズムとは、近代純粋資本主義的な消費生活(夫が所謂モダーニズムだが)に対する反感から出発して、一方勤倹主義に行くと平行して、他方尚武主義に行くのである。即ちアンチ・モダーニズムとアンチ・フェミニズムという一双の趣味風俗が、こうやって、夫々、勤倹主義(!)と尚武主義(!)という一双のファシズム式道徳にまで高められるのである。カフェーに特有なこの享楽主義を唯物論(?)(牛飲馬食獣欲主義)の一種と見るならば、この道徳は更に哲学的基礎づけにまでさえ高められるだろう(尤も実はブルジョアやファッショ達の方が銭使いが荒くて芸者好きだということは世間では能く知っているが)。でこうなると、カフェーはやがてダンス・ホールと全く同じ運命を辿らなければならぬということは、決定的に明らかだ。
 さて今度は学生とカフェーとの問題だが、一方学生の社会的な弱り目につけ入り、他方カフェーの社会的不評判につけ入るとするならば、夫は全くたやすい企てでなければならぬ。すでにダンス・ホールに就いてはこの企てが着手されている。ダンス・ホールから学生を閉め出すことは、云うまでもなくダンス・ホールの弱みと学生の弱みとに同時につけ入る一石二鳥の試みだ。全く同じことがなぜカフェーに就いて不可能なのか、その理由を知るに苦しむ、とそう保安部長乃至保安課長が考えねばならぬことは、人性の自然ではないか。
 学生業もカフェー業もすでに云ったように、「弱い商売」なのだ。と云うのは、之をいくら抑えつけても、世間が初めから之を白眼視し冷眼視しているか或いはしているような顔をしている以上、大丈夫世間から骨のある抗議は結局出て来る筈がないのである。尤も弱い商売にも色々あって、弱い商売でありながら仲々強いのもあるわけで、青楼などがその好い例であることはよく知れている。娼妓が自由廃業する際の楼主
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