らだ。
 現代青年は、ほっておけば限りなく弱い社会的無能力者に堕ちて行く他ない。それから立ち直るには、闘いが必要だ。一見壮年者や老年者に対する闘いである。併しそれには、やや外部からの、指導と援助とが要る。その指導者援助者は、このごろ見かけるあの青年の指導者や教育者のことではない。無産大衆こそが、現代青年の指導者だ。
[#改頁]

 15 学生論三題

   一 学生は変ったか[#この行はゴシック体]

 旧いことは論じないとして、今から七八年前には学生の社会的役割というものが非常に大きかったということを、今更私は考えざるを得ない。労働者農民の組織活動や啓蒙運動に於ける学生の役割、学生運動が持っていた社会的意義、それから学生が要求する文化的形象の社会的な圧力(と云うのは評論雑誌其の他に於ける思想傾向、プロレタリア文学の発達、等々が実は主として学生読者の要望に答えるためであったから)、こうしたものは学生をして社会の最も積極的な分子と見做させるに充分であったのだ。
 学生というのは大体大学生を標準にして云うのだが、この学生は当時、単に学生であるだけでなくて、当時のインテリゲンチャの代表者であり、そして又それが、或る限度に於て、意識ある無産者(主として労働者)のモデルになるという状態でさえあった。学生がこれ程社会的リアリティーを持っていた時代は、云うまでもなく日本ではそれまでなかったし、今後も恐らくなかろうと思われる。
 私はある時偶然、武田麟太郎が自分の「大学生」振りを語った小品を読んで、非常に面白く思った。この不良な大学生が如何に社会的活動をなし得たか、という点を考えると、全く今昔の感に耐えないとでもいう他ないのである。武麟もその一人だが、この社会的リアリティーを背負って立った学生達の代表的な一団である新人会や、その社会的組織であった学連などから、運動家、理論家、作家などを面白い程多数に輩出したことは、誰知らぬ者はないが、注目を怠ってはならぬ点だろう。而もどれも早く若くして世に出たのだ。試みに最近の大学卒業生に就いて考えて見ればよい、この連中はもはや決して、あれ程易々として社会に乗り出すことは出来ないのだ。その時期は、汐時は、もう過ぎたように見える。
 この頃の学生は勉強しなくなった、気魄が衰えた、ということをよく聞く。恐らくそれは本当なのだ。大学や学校が社会的真実を教
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