える機関であることを完全に止め、而も学生の社会的意義に何等採るべき積極性がなくなった時に、学生がクサるのは当り前のことだ。七八年前の学生は必ずしもサラリーマンの候補者ではなかった。少なくとも自信のある学生は自分の未来にもう少し自由な活動分野を空想することが出来た。そこには創意を充たすだろうような理想を空想することが出来た。今では夫がないのだ。学生生活はサラリーマン生活の予備校に過ぎなくなった。学生の文化的役割さえが、可なりの部分サラリーマンへ移行していることを見落してはならぬ。
だが云って見れば学生のこの予備校的存在は、当然と云えば当然なようなものである。社会秩序の変動が眼の前にブラ下っているように思われた時には、予備校的存在はただの予習期のものではなくて、新興の要素であり得るわけだが、一応その秩序変動が眼の前から一定の距離を距てたように感じられる時期になると、予備的存在は要するに予備校的存在に戻るわけで、旧秩序へ編入される前の予習期にならざるを得ないのである。尤も与えられたこの秩序自身に何か期待が持てるのなら(明治大正中期頃迄のように)、予習期には予習期らしい意義と張りがあるのだが、この秩序そのものの無価値を一旦知って了っている以上、まことに希望のない予習期と云わざるを得ない。
併しそれだけに又却って、学生は社会のリアリティーを本当に味わわなければならぬ時代に来たのだし、又それを味わうことの出来る時代に来るのだとさえ云っていい。学生は学生としての身の振り方を今までになく真剣な問題にせざるを得なくなる。その結果、今では学生とサラリーマンとの間の社会的意識の上での区別は殆んど無くなって、学生が安サラリーマン化すると共に、サラリーマン自身が又一部分従来の学生の持っていた文化的な役割を分担するようになって来たので、サラリーマン間のグループ活動など多少は意義を有つようになって来ているのだ。つまり之は学生が社会に於ける極めて地味な位置を占めるようになり、その点サラリーマンなどと大して変った意識を持てなくなったと共に、全体としてこの種の学生サラリーマン等の青年インテリが、地味な道を辿りながら、而も何かしら社会的にもわずかでも動かねばならぬという事情におかれるようになって来た、ということなのである。
だから今日の学生は駄目になったと云われながらも、矢張り学生の優れた分子は文
前へ
次へ
全226ページ中115ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング