と而も階級的な性質とを受け取っているものなのだ。――処でそうした上で、更にこの現代青年という普通な階級性質(併し階級をなしていると云うのではない)の上で、改めて現代青年の夫々異った階級性をもつ夫々の層を考えることが出来るし、又考えなければならぬ。青年労働者、青年農民、サラリーマン、学生、有閑青年、青年ルンペン、青年将校、などがこの階級性[#「階級性」に傍点]上の区別だ(必ずしも階級上[#「階級上」に傍点]の区別ではないが)。――尤もこの内、青年将校は、弱い現代青年の例外であって、現代青年の意義を踏みはずした者だが、之はまあ問題外としよう。彼等は現代青年の種類にぞくするものではなくて、寧ろ日本人の内のものと特別な種類にぞくするものと見ねばならぬようだ。彼等は現代青年ではなくて、単に将校なのだ。現代青年は親爺の登った梯をそのまま登っては行けない筈だったろうからだ。さて之を除けば、あとの現代青年が如何に弱い無能力者として社会的指定席にうずまっているかが判ろう。
 現代青年の心理を現象的に分類することは、どういう風にでも可能なことである。一例としては、進歩的青年・「革新」的青年・文学青年・キネマ青年・スポーツ青年・ダンス青年などに分類出来るだろう。だが之は大して有用な区分とも思われない。――矢張り大事なのは、現代青年の社会的無能力という概略の特色だ。
 併し、現代青年が社会的無能力者だと云うのは、略々無産大衆が、労働者や農民が、社会的無能力者だということになぞらえ[#「なぞらえ」に傍点]て、そう云うのであった。無論このなぞらえ方は、科学的に精密に行なってはいないから、現代青年と無産大衆とのこの譬喩には、ガタや隙がある。だが、それにも拘らず、やはり、現代青年は無産大衆のようなものだ。処で現代の無産大衆の弱さは、之を自覚すれば忽ち強さに豹変するものであることを忘れてはならぬ。そこで現代青年でも亦、その弱さの自覚は、事実上その強みとなることが、概略可能だと云うことが出来よう。尤も無産大衆はその組織を有つ、又は有ち得る。夫が彼等を強くするのだ。現代青年は現代青年として組織を有てるか。だが之は話しが変になった。青年が青年としての組織を造るとか造れるとかいうのは変である。青年を強くするその組織は、青年であるが故の組織ではなくて、無産大衆に類するものであるが故の組織でしかありえない筈だか
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