そういうモダーンボーイの一種の類は別に現代青年の代表者でも何でもない。それよりも私は現代青年が、丁度娘乃至箱入娘のように、著しく家庭化したという現象の方が、意味が深いと思うのだ。
 と云うのは、現代青年は貧困で下積みだったのだから、壮老年者が設定した家庭を離れては生活が困難なので、そこを覘って社会の壮老年者が、現代青年に家庭に帰れと強要しつつあるのである。家族主義の名の下に家庭主義が強制される。父権は却って拡張される(例えば民法改正に於ける自由結婚の否定)。母親だって息子よりも強くなる。本来なら息子に厄介がられるべきお袋も、今では息子の大学の入学試験にまで母権を拡大する。青年婦人即ち娘は、言うまでもなく花嫁学校に収容されねばならぬ。――処でこの家庭主義は、日本の無産大衆にとっても亦、恐怖でもありそして又魅力でもないだろうか。農民が都会から家庭に帰郷することによって、都市の失業は農村家庭の赤貧の底無し沼の内に、吸収されて行く。「都会には職はありません」というポスターは、失業の増大を告白するためではなくて、家庭を賛美するためなのである。――とに角、無産者と現代青年とは、女と同じに、家庭化されねばならぬ。
 こうして現代という反動期は、青年の無能力時代なのだ。青年のこの新しく獲得した無能力という資格が、現代青年という一種族を造った。之は壮年者や老年者の単に年の若いもののことではなくて、現代の壮年者や老年者とは社会的に種族を異にした人間のことなのである。法律的に有名な「無能力者」としての妻が、いかに年を取っても男とはなれないように、現代青年は、どんなに年を取っても、現代の壮年や老年が意味しているものになれぬ。
 だが、こう一概に云っては、不正確に過ぎるかも知れない。現代青年の皆が皆そうだというのでは無論ないし、現代青年の各種の社会層が皆そうだとか、又その点でどの層も同様だとかいうのでもない。それから弱い弱いと云っても、社会的に弱いということが実はどういうものであるかも、もう少し吟味してかからねばなるまい。
 現代青年は云うまでもなく社会の各層各階級から出て来ているから、現代青年中に各階級の区別があるのは当然だ。そしてこの区別が事実、一つ一つの場合には、相当大きな差別を齎しているのも事実だ。併し丁度学生がそうだったように、現代青年も亦、一応そうした階級別から離れて、共通な輪郭
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