その反面として、こうした合理主義[#「合理主義」に傍点]は歴史の発展を一つの必然性と見る代りに、之を単なる欠陥誤謬偶然等々と見做し、合理的な見地から云って払拭清算されるべき過去と見ることとなる。歴史的必然の無視がこの合理的進歩主義の一つの著しい結論だ。要するに当時は新興ブルジョアジーがまだそれ程に自信を有っていたのである。
之は啓蒙期という一つの歴史上の時代に於て、歴史的に実際に現われた形態としての、啓蒙哲学の特色である。無論之を以て、形式的に一般化して考え得るだろう啓蒙的思想全般へ及ぼすことは、意味があるまい。まして現代にとって必要な啓蒙活動の根柢にも亦、この特色がひそんでいると推断することは、一種の歴史主義的な色眼鏡か迷信だろう。啓蒙哲学の有っていた歴史上の実際の意義は、人間悟性[#「悟性」に傍点](之に就いてはホッブズ、ロック、バークリ、ヒューム、それからカント達が一様に論じ立てた)の人間社会発達に於ける役割を、本当に発見したことにあるのであって、当時としてはまだ、之をわざわざ理性から区別しようとか、歴史的観点を無視しようとかいう、動機があったわけではない。そういう規定は後になって歴史家が発見したのであって、当時の本当に歴史的な動機ではなかった。でもしこの歴史的動機に従って、善意に(?)啓蒙哲学の精神[#「精神」に傍点]を理解するなら、啓蒙というものに就いての今日でも生きていなければならぬ生命を、そのまま殺さずに取り出すことが、或る程度まで出来るだろうと思われる。
人間悟性への信頼なのだが、之はつまり人間性に対する新しい形の信頼だったわけだ。今日ヒューマニズムが提唱されるとすれば、そして夫がルネサンス期のヒューマニズムとはおのずから異ったヒューマニズムだというなら、そして又ルネサンスの方もルネサンス期には限らず今日でも来るものだというなら、この啓蒙思想という人間悟性の信頼は、今日でも生きていなくてはならぬ筈だ。ただ人間悟性をどういう角度から信頼するかということが、今日必要な啓蒙思想と、歴史上の啓蒙期の夫とを区別するだけだ。だが、そういう意味で今日最も啓蒙的な実力を有ったものが、マルクス主義哲学であることを思うなら、この区別が何であるかは、今ここに特別な説明を必要とはしないだろう。
併し之は啓蒙思想[#「啓蒙思想」に傍点]に就いてであって、まだ必ずしも啓蒙
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