国々に文化使節を駐※[#「答+りっとう」、第4水準2−3−29]せしめ、更に外務省監督の下に、朝野の財力と知力とを総動員して有力な国際文化事業を目的とする財団法人「日本文化中央協会」と云ったようなものを、民間に造るそうである。云うまでもなく「対外文化宣揚[#「対外文化宣揚」に傍点]」がその目的なのである。
 そこで、さし当り着手する事業は、一、日本文化講座を主要諸外国の大学その他に新設すること、二、海外各地に日本語の学部又は語学校を建てること、三、学者、芸術家の海外派遣、四、教授及び学生の交換、五、国内国外の国際文化団体の補助、六、本邦芸術(歌舞伎・能・国産映画等)及び本邦国技の紹介、等々だということである。
 誠に結構なことで、今までこうした施設に気づかなかったことが寧ろ変だったと云いたい位いである。自分の国の文化を世界に示すことは、当り前な国際関係で、その結果はまたおのずから外国の文化の輸入という現象ともなって現われるから、ここに本当の「国家」(?)の使命たる世界の文化的共同体への道が開けるわけで、もし、之を放っておいて「外交」とかいうものをやっていたのだとすると、今まで国家は対外的に変なことばかりをやって来たことになる。で何しろ早くこの点に気づいて良かったと思う。一七〇万円や二〇〇万円の金は少しも惜む処ではない、フランスは七六〇万円、ドイツは八六〇万円、イタリアは八三〇万円、スペインは二〇〇万円、夫々この種類の対外文化事業に投じている。観光局[#「観光局」に傍点]のような変態的な紹介機関しか持たなかったわが国が一体いけなかったのである。
 だが疑問はいくつも出て来てつきないのだ。対外文化宣揚が目的だそうだと云ったが一体なぜ急に、わが国ではそれ程文化の対外的宣揚が必要になったのか。日本の文化は決してこの数年来、その水準が高まって来てはいない。高まった部分があるとすれば、夫はソヴィエト・ロシアやドイツを通じての社会科学的研究や常識の場面其他一般の自然科学的研究の世界に於てであって、日本固有な文化(もしそういう言葉が必要ならば)の場面に於てではない。まさか「日本社会主義」とか国体科学とか其他其他のものの建設が日本文化の昂揚でもあるまい。歌舞伎や能はキネマや世界音楽に較べれば、相対的に急速に衰退しつつあるし、相撲が再び盛んになって来たと云っても、拳闘や野球に比較したら物の数ではない。そういうわけで、特に急いで対外的に宣揚しなければならない程の内容ある日本文化は出来ていないのが遺憾ながら今日の事実だろう。
 寧ろ、盛んになっているのは、愛国家が敢えて宣揚することを好まぬような、アッパッパ映画や東京音頭まがいの街頭小唄位いのものではないか。――日本の文化水準は一般的に、最近|頓《とみ》に停頓して来たし、特に又日本固有文化[#「又日本固有文化」に傍点]は決定的な衰退の途を、もはや引きかえすだけの勢をもっていない。宣揚する必要があるのは、日本固有の文化があまりに昂揚しているからではなくて恐らく、あまりに没落して行き過ぎるからかも知れない。
 だが国際文化局という名が付いているからと云って、正直に、問題が文化にあるのだなどと思うと大間違いをする。問題は文化などという甘ったるいものにはないのだ。文化などは実はどうでもいいのであって、抑々日本は満州問題を惹き起し、国際連盟を脱退して非常時に這入ったのだ。そこでこの国際連盟を出た代りに国際文化局を当方で造ろうというのである。国際連盟はその文化委員会でさえが日本側が受動的だったのだが、まず第一にこの点を逆転して文化的に攻勢に出て、それをやがて「外交」の強硬化に合致させようというのが、この外務省国際文化局の使命なのである。だから文化のことなど実はどうでも良かったわけである。
 併し何と云っても国際文化局という名が付いている以上、日本の文化の宣揚をしないというわけには行かず、従ってその結果は、おのずから、広汎な国際的文化交換、文化連絡をしないというわけには行かなくなる。どの国とどの国とに対しては文化交換をやるが、他の国とは文化交換をしないというような態度は、対手が大使や公使を交換している国である以上、一寸おかしいだろう。
 現在「日ソ文化協会」という社交クラブがあるが、警視庁外事課はあまり之を愛惜していないようである。だから多分、之などは国際文化局に編入されて了うことになるだろう。――対ソヴィエト関係は之でいいとして対ドイツの関係はどうしたものだろうか。嘗つてプロイセンの憲法を輸入したわが国は、最近ナチスの社会政策を輸入しようと企てているらしい。けれどもヒトラーはその代償として、「日本固有の文化」などという凡そ非ドイツ的なものを受け容れる様子は見えない。そうするとこの場合国際文化局の仕事もあまり、文化宣揚にも文化交換にもなりそうもないではないか。一体、一定の対手だけを選んで文化宣揚をやろうというのが無理な注文であると同じに、一方的[#「一方的」に傍点]にだけ文化の宣揚をしようということが、虫のいい勘定なのである。
 処で文部省は大学、専門学校の教授の海外留学を停止する方針だそうである。之も今云った外務省の虫のいい方針と何かの関係があるかも知れない。強硬外交ということであるが、之は教育・文化政策上の強硬外交であるかも知れない。海外留学の代りに、この頃は専門学校以下の教師になると、内地留学というのが相当盛んに行われている。なる程、本当に自由な条件の良い時間を得たいと思っている研究家にとっては、内地留学は海外留学よりもズット有難いことに違いない。もし「国民精神文化研究所」などへ留学を命じられるのでさえなかったならば。
 とにかく外務省と文部省とが之程仕事の上で接近したことは慶賀すべき現象で、何も文部省は、内務省や陸軍省ばかりの同伴者である義務はない筈である。

   三、児童虐待防止法

 この十月一日から児童虐待防止法が実施され、十四歳未満の児童を、家庭内に於ける虐待・種々なる職業に於ける虐使其他から護ることになった。之を喜ばない人間は本当は一人もいない筈である。今年の六月初めには、公娼の自由外出が許可されたが、薄倖児の救済はそれにも増して吾々自身に希望を与えるものがある。尤もその反作用として、わが国は、まるで原始社会のように、女や子供を虐待する国柄であったような気もしないではないのだが。
 前日の九月三十日には、東京府社会事業協会は市内五十の各社会事業団体を総動員し、全市を十五地区に分けて、早朝から係官を出張せしめ、主旨の宣伝に力めたものである。「可愛そうな虐待児童がいたらすぐに警察に知らせて下さい」とか「十四歳以下の子供に物売りをさせてはいけません」などというビラを配りながら、薄倖な児童の家庭を訪問させたのである。
 処で新聞の社会面が報じる※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話によると、社会事業協会の幹部の一行が吾妻橋傍に佇んでいる親子ずれの門付けをつかまえて、明日から止めないと懲役になるよと注意すると、母親は急にメソメソと泣き出して了ったそうである。「この子に稼いでもらわなければ御飯が食べて行けないのです、亭主には棄てられ家には病人があり……」と云って泣き出して了ったというのである。念のために云っておくが、泣き出したのは子供の方ではなく母親の方なのである。新聞の話しでは、之を聞いた一行は、さすがにホロリとさせられたというだけで終っているのだが、それから先が問題ではないかと思う。
 実の子ならばまず大抵の親は虐待などはしたくない筈だ。それを「虐待」しなければならなくするのは、云うまでもなく親子の生活のためだ。それから本当に子供を虐待するのは、所謂「親方」や雛妓《すうぎ》の抱主だろうが子供を親方や抱主に渡す親達は云うまでもなく生活の必要に迫られるからだ。親爺がのんだくれだとか何んとか云っても、相当の収入でもあればやたらにのんだくれになるものではないので、之も結局生活の不如意からだ。虐待を除いても虐待の原因を除かなければ、何等の根本政策でもあり得ない。
 なる程九月三十日には、街頭で発見された虐待児童は乞食二十一名、辻占売十五名、新聞売十一名、遊芸十名、絵本売六名、コリント台売四名、花売二名、合計六十九名だったのが、この法律実施の初日である十月一日には僅かに辻占売一人と乞食三人としか広い東京市の街頭で発見されなかったと新聞が報じているから、該法律の効目には目ざましいものがあるようだが、所が、一方九月三十日迄に来たお酌の就業届出数は、例年よりも三〇〇件を増しているという、裏の事実もあるのである。
 既に就業している雛妓には、何故かこの法律は適用されず、今後就業しようとするものだけに適用されるというのだから、九月三十日を名残とばかり雛妓就業届出が殺到するのは当然である。それでこれら既成雛妓の抱主達は、例の吾妻橋のルンペンお袋のように、メソメソ泣き出さなくて済んだわけである。――何しろ、高が流しの門付け修業には殆んど資本はかかっていないが、雛妓にまで就業させるには原料の費用も加工費もかかっている。之を賠償しない限り、児童虐待防止法と雖も承知は出来ない。
 大人でもあり余っていて子供なんかはどうでもよくなった工場や海運業に於ては、児童労働禁止は可なり前から実施されている。道徳的な法律は凡て抵抗の弱い処から適用を着手するらしい。児童虐待防止法が芸者屋よりも先にルンペン親子の方へ、適用されるのは必然である。
 児童虐待をしてはいけないという名目上の禁止は之で出来上ったが、前借住込みという形式の極東アジア的人身売買をしてはいけないという禁止令はまだ出ていないようである。併しそんなことまで構っていると問題は限りがなくなるのである。今に男の大人の虐待までも問題にしなければならなくなるだろう。労働者や農民の失業者の日常的な社会的虐待、又之に学生やインテリを加えての警察的虐待など、こうしたものに対して一々禁止命令を制定していては切りがなくなるわけである。禁止令はなるべく狭い範囲にだけ実行されて纒りがつくような種類のものから、先に選ぶべきだろう。そうしないと労多くして効少ないからである。児童虐待防止法などは、それには持って来いの、小ジンマリした理想的な法律ではないか。
[#地から1字上げ](一九三三・一〇)
[#改段]


 林檎が起した波紋

   一、林檎の場合

 多分読者は東京に六大学リーグ戦というものがあるのを知っているだろう。五つの私立大学に東京帝大が加わって出来ているが、帝大には応援団もなければ大したファンもいないそうで、そのせいかどうかこの頃帝大の成績は問題にならない程悪いそうである。で帝大は云わばおつき合いに出ているようなものだから、本当をいうと五大学リーグ戦と云ってもいい位いだそうである。日大・専修大其他から出来ている所謂五大学リーグ戦と違う点は、日大などを決して入れてやろうとしないという処にあるので、即ち決して七大学リーグ戦などにならないということがその本質の一つだ。処が実はそれが六大学リーグ戦ではなくて五大学リーグ戦に外ならないのである。
 併し、この頃時々優勝するという立教や法政が、仮にリーグを脱退してもリーグにとっては大して問題ではないだろうが、之に反して、もし仮に早稲田か慶応かが脱退するとなったら、リーグ戦の価値はまず殆んど零になるだろう。云わば六大学リーグ戦は、早慶戦を合理化するために出来上ったようなもので、又早慶戦を中心に行われているようなものだ。こうなると六大学リーグ戦、実は早慶二大学リーグ戦だということになる。
 早慶を除いた外のリーグ加盟大学は早慶のおつき合いに引き出される刺身のツマのようなものだが、それで早慶外のリーグ加盟大学が損をしているかというに決してそうではないらしい。帝大は学問の上では兎に角(無論学生の学問のことで教授の学問になると仲々問題が多いが)、カレッヂボーイシップ(?)の上では問題にならないが、それでも野球部はたしか
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