にリーグ戦のおかげで経済的に恵まれている。他の法・明・立になると、問題は単に野球部の利益などではない。これ等の大学はリーグ戦に加わっているおかげで、大学自身として計り知ることの出来ない程の利益を得ている。ラヂオや新聞や雑誌は毎月毎月、わが大学の存在を宣伝して呉れる。わが大学のマネキン選手諸君を見物するために、数万の華客が、金を払って来て呉れる。デパートと同じで、物を買いに来るお客ばかりで儲かると思うと大きな間違いなので、人気[#「人気」に傍点]というものの営業的価値をこの際理解しておかなければならぬのである。
 もし優勝でもしようものなら入学者の数は眼に見えて増すかも知れない。たとい負けても、名も知れないような大学の学生よりも、肩身の広いカレッヂボーイになった方が、世間でモテルから、自然入学もして見たくなる。リーグ戦のおかげで、こうした大学は世間的に非常に尤もらしくなることが出来る。そうなって営業が楽になれば、やがて多少は金の高い教授も雇うことが出来るわけで、大学の一切の価値はリーグ戦から決まってくるようなものだ。
 わが「制服のマネキン」諸君を獲得するのには、だからどの大学も有形無形な大変な骨折りをしているのは当然で、文部省のお役人と甲子園の英雄諸君とは、この五大学リーグ戦加盟の大学が、最も恐懼している存在なのである。
 併し法・明・立の諸大学は何と云っても、精々おこぼれを頂戴しているに過ぎない。本体は早稲田と慶応とにあったので、この二つの大学に取ってはリーグ戦は全く死活問題なのだ。有力な多数の先輩を有っているこの二大学、即ち財閥を直接背後に持っているこの二大学は、財閥の手前から云ってもリーグ戦はおろそかに出来ない義理がある。それが学生の意識に反映すると例の勇敢な大応援団[#「大応援団」に傍点]が出来上る。それから学外のファン組織も出来上る。応援団が単に選手を応援しているなどと思っては大間違いで、応援団学生は自分の大学の財閥を応援しているのである。彼等の先輩が開拓した地盤を大学の名誉ある伝統の名のために応援しているのである。彼等はグランドで正々堂々と就職運動をやっているのだ。早慶の応援団が卓越して勇壮なのはこういう就職運動にうっかり身が這入り過ぎるからでこういう「スポーツマンシップ」はたしかにラヂオ体操などでは発揮出来ない。
 それだけに問題はいつも早慶を中心にして持ち上がる。まず早稲田側では三原選手が今云ったスポーツマンシップの「真剣性[#「真剣性」に傍点]」を理解しないで、恋愛などに走って了ったという事件が起きたが、之は婦人雑誌に一任するとして、他方早稲田の応援団が再び更生するという吉報が齎らされた。今春来幹部と反幹部との対立で潰れそうになっていた応援団がどうやら復活してこの秋の早慶戦に臨めそうだということになったのである。軽薄な存在には幹部と反幹部との対立などはあり得ようがなく、政党や組合というような真剣な存在であればこそ特にこうした対立がつきものなのだが、この点から見てもリーグ戦応援団の真剣性・深刻性は判るだろう。で早稲田には真剣な応援団が更生した。その活躍振りは刮目して見るべきだということになった。
 慶応は慶応で十月二十二日の早慶三回戦に先立って、リーグ当局を恫喝し始めたのである。銭村・小林の審判は御免を蒙るという申し出である。併し芸人の芸が如何に優れていても、興行主は興行主なのだから、リーグ理事会は審判の権威の名の下に、慶応の申し出を斥けて、リーグ当局自身の権威を擁護することに決心したのである。そうでもしないと、うかうかしていると、小屋が潰れて了うので、早慶自身はとに角、興行主たるリーグ当局の役員生活問題にも関わるからである。だがそれにしてもリーグ当局はそれだけ「権威」を問題にされたわけであって、この時以来慶応野球部の「権威」には恐るべきものがあることが発見された。
 早稲田の真剣な応援団と、慶応の権威[#「権威」に傍点]ある野球部とが、顔を合せる日が来た。その日軽薄で見識のない早慶ファンが前の晩から山のようにつめかけたことは断るまでもない。処で試合中、権威ある野球部の意を体した慶応の選手は、審判官の審判の権威を盛んに覆しては、自分の権威をひけらかしたが、その結果かどうか知らないが、われ等の世界史的な審判[#「世界史的な審判」に傍点]のサイレンは遂に慶応方のために鳴り響こうとしたのである。その瞬間、神様は偶然にも楽園のアダムとイヴを思い出して了ったのである。――そこで早稲田の真剣な応援団は、猛然として贖罪と救済とのために起ち上り、同時に慶応側の権威ある指揮棒が行方不明になった。ということに、少くとも早稲田側ではなっている。この際、切符の不正改札をしたり、「顔」に向っては言葉通り顔負けをしたりしつづけている場内整理員などは、早稲田の応援団によって一たまりもなく押し除けられたのは云うまでもないし、大喜びで写真を撮り始めた新聞記者が思い切って処罰されたのも当然である。
 さて早大側は林檎をぶつけた慶応野球部選手某に謝罪しろと主張するし、慶応側は早大野球部にリーグを脱退しろと要求するので、問題はリーグの委員会にうつされることになった。早大側の要求は当然であるとして、慶応側の主張には一寸腑に落ちない点がないでもあるまい。あばれたのは早稲田野球部ではなくて応援団だったのだから、野球部にリーグ脱退を迫るということは少し変のようだが、併し、応援団が、決して野球と離れたものではなくて、大学自身にとって野球部が持っている重大な意義をば別の形で云い表わしている真剣な存在だったということを思い出せば、慶応側の要求も亦無理ではない。それは兎に角、最近妥協案が作成され、夫が両大学に対して勧告の形で示されたが、その結果はまだ判らない。悪くするとリーグ自身が、逆に早稲田辺から責任を問われる破目に陥るかも知れない。実際、大事なのは早稲田と慶応とであって、リーグ当局などは両大学の寄生虫のようなものかも知れない。この寄生虫が権威を有っていられる間が「スポーツマンシップ」の存在する期間で、この権威が両大学に移り始める時は、スポーツマンシップという得体の知れない幻影が正体に返る時である。その時こそは問題が高田閥とか三田閥とかいうものにまで純化[#「純化」に傍点]される時なのである。
 警視庁などでは、応援団を金網に入れることを研究しているそうだから、スポーツマンシップを出来るだけ早く、こういう具合に純化[#「純化」に傍点]して了わないと、応援団は気の毒にも金網に入れられて了う運命に見舞われるだろう。

   二、野犬狩りの真理

 応援団より気の毒なのは併し、野犬諸君である。ある二人の外国人の女が、帝都の野犬(?)を満載した三河島行きのトラックの前に立ち塞って、その犬を皆んな買います、と怒鳴り立てていたという事件がある。自分の飼い犬が見えなくなって百方手を尽してさがしていた処、幸いにもその犬が帰って来たのはいいが、首輪の代りに犬殺しの針金が首にまきついていたのだそうである。二人の婦人は之を見て犬一般に対する義憤と憐憫の情とから、この嬌態を演じたというのである。併し犬殺しは巡査立ち合いの上で犬を捕獲して歩くのだから、その行為はあくまで合法的なもので仮にその合法性の根拠が、本当に狂犬病予防のためなのかそれとも犬殺し稼業の保護のためなのかハッキリしないにしても、とに角合法的である以上、子供などにどんなに残忍な印象を与えようとも構わない筈だと私は信じている。
 高田義一郎博士は東京朝日の鉄箒欄で、この問題を取り上げ、野犬狩りの目的が狂犬病の予防にあるという仮定から、野犬狩を批判している。之に対して警視庁獣医課の係員は、如何にも警察医と犬の医者との結合物であるような口吻で、之に反駁を加えているが、博士は更にこの反駁を批判している。今はその一々の内容はどうでもいい。博士はあくまで医者の立場から野犬狩りを狂犬病の問題として取り上げているが、そうすれば当然、野犬はなるべく少ない方[#「少ない方」に傍点]が望ましいわけである。そのための一つの対策として、畜犬税を半分にすれば野犬はそれだけ飼犬になって、数が減るだろうと博士は云っている。
 だが、実は野犬はなるべく沢山[#「沢山」に傍点]いないと困るのである。野犬が足りない時には飼犬の首輪を外して野犬に仕立てたり、人の家の縁の下にいる犬までも引っぱり出したりする必要が、犬殺しにはあるのである。こういう種類の窃盗や家宅侵入は、巡査が立ち合っていることになっているのだから、事実上は合法的になるのだ。で例の外国婦人が悲憤を感じたのは案外この点だったのかも知れない。
 残忍な行為はただでは決して合法的にはならない。狂犬病の予防のためなどだけなら、野犬狩りの行為は、残忍だという印象をさえ多分与えないだろう。経済上の必要が直接その後ろにかくされている時初めて或る行為が残忍という性質を受け取るので、そしてその時は同時にその残忍な行為が社会的に合法化されている時なのである。
 犬は野犬に限らない。野犬に落ちるのは大抵駄犬であって、名のある犬は大抵飼い犬になる。首輪も嵌めず定住処もなく、定職もなしにフラフラしていると、浮浪罪に問われて、タライ廻しに合った揚句、三河島で秘密裡に処置されて了うが、その代り飼い犬となって雇われたとなると、仲々尊敬されるものである。愛玩用としては、有閑マダム・スポーツマン・芸妓などと並ぶことが出来るし、警戒用としては門番や守衛や巡査などと肩を並べられるし、狩猟用としては忠勇な軍隊とさえ一緒になることが出来る。この間関東軍では、東京から京都、大阪、神戸に亘って、シェパードを軍用犬の種犬として買い上げるために徴兵検査を行ったが(甲種合格十四頭)、シッポの振り方をよく教育されていないために内地の街頭でウロウロしている野犬達に較べると、この満州行きの連中は全くの英雄ではないかと思う。
 駄犬と名犬とはこれ程待遇が違うのだが、どこで駄犬と名犬との区別がつくか。それが素質と教育とによることは云うまでもない。教育の方はこの頃世間で非常に喧ましく云われている。まるで「教育」だけで、教育が出来るかのように、教育万能を人々は信じているようだ。それだもんで食事を与える任務を帯びた女中達までが、飯をやる代りにお説教を聞かせてやったり、散歩につれて行くように云いつかっている書生君が、棍棒で説教することに方針を変えて了ったりするのである。けれども一体犬を教育するには何よりも食餌を与えるということが一等大事な手段だということを、人々は忘れてはならない。
 教育の方はまだしもとして、素質の改善の方は今まで全く等閑に付されていた。ということをこの頃人々はやっと気づいたようである。之に一等初めに本当に気づいたのは、ドイツのヒトラーという人物で、彼の優生学は何故だか雑種の発生するのを大変恐れる処の科学である。わが国の「民族衛生学界」は併しもう少し衛生学的で、「医学や懲罰等によって到底矯正されぬ病気をこの世から駆逐しよう」との目的の下に、断種法の強制を来議会に建議しようとしているそうである(十月十三日付東京朝日新聞)。
 素質の悪い処に如何に教育を施しても無駄なことは判り切っているから、素質の悪いのは絶滅させるに限るというのであって、駄犬はドシドシ淘汰されねばならぬということである。それは要するに、野犬はドシドシ退治しろということに帰着する。ここに野犬狩[#「野犬狩」に傍点]りの新しい真理があるのだ。

   三、内政国策会議まで

 先月十二日若槻民政党総裁は名古屋に開かれた民政党有志の歓迎会席上で、時節柄至極注目に値いする演説をやって除けた。之より先、政友会大会で鈴木政友会総裁が、民政党総裁を攻撃する積りで、うっかり若槻ロンドン軍縮会議全権の批評をして了ったのだが、そこで若槻氏は往年の軍縮全権としてロンドン条約の説明を党員に与えておかねば困ると云って、責任者として次の諸点に就いて述べる処があった。
 第一にロンドン条約は製艦費の節約
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