によって国民の負担を六年間に亘って軽減し、又国際平和をそれだけ確保し得たというその貴重な結果を尊重されねばならぬ。第二には補助艦総トン数対米七割・大型巡洋艦対米七割・潜水艦七七八〇〇トンの確保を三大原則としたが、第三の潜水艦トン数が米国と同じく五二七〇〇トンに切り下げられたとしても、総結果から云えば、まず三原則の主旨は貫徹したと見てよく、大体に於てロンドン条約は成功であったと見るべきだということ。第三には、その際全権が政府に発した請訓は、海軍次官・軍令部長・軍事参議官列席の上で賛同を得たものであって(海軍大臣渡英中)その間何等統帥権干犯というようなことは絶対にないということ。第四には、海軍第二次補充計画は、一部に伝えられるようにロンドン条約の失敗・欠陥を埋め合わせるための計画ではなくて、正にロンドン条約自身の範囲内で行われることになっているのだから、その実現が急に必要になったのはロンドン条約が原因ではあり得ないので、何か他の国際関係から由来する外ないこと。第五には該条約は一九三六年に効力を失うものでその前年に当る一九三五年の第三次軍縮会議に於ては、日本はロンドン条約と無関係に新条約を締結し得る筈になっていること、等々である。
海軍当局は之に対して、潜水艦の二五〇〇〇トン減少の如きは重大な欠陥を意味するもので、之を以てしても条約の成功だと考えるのは了解に苦しむ処だと云い、特に青年士官達は、統帥権干犯の事実は歴然として明らかではないかと騒ぎ出した。「かかる主張の存在に対しては従来の如く輿論を黙過することなく」、上局を促して適当な処置を取らせねばならぬということになって来たのである(十月十四日付朝日)。
何だか軍部はこれまでいつも輿論を無視して来たかのように、この言葉は受け取られるかも知れないが、無論そういう意味ではない。処で当時、五・一五事件の花形の一人、海軍側被告の特別弁護人たる、海軍大尉朝田某は、多数少壮士官を代表して、若槻総裁に会見を申し込み、一時間程若槻邸で談判したが、「朝田大尉は容易に諒解せず、統帥権干犯については反駁して譲らず、結局物別れになったそうである」(十三日東朝夕刊)。朝田大尉は諒解する目的で出かけたのではなかったろうから容易に諒解する筈はないのである。
併し明敏なる若槻総裁は、政党・政府、引いては国民に迷惑を及ぼすことを恐れて、以後この統帥権干犯問題には触れないという声明を与えたから、軍部も政友会もあまり深く追及することはさし控えた。十月十六日の東京に於ける民政党懇談会席上では、ロンドン条約にあまり触れないと云って、海軍第二補充計画についてだけ語っている。海軍当局は最後に、この第二回目の演説に対して非公式な声明を発して、若槻総裁を反駁した。曰くロンドン条約は欠陥だらけであり、且つ「条約締結の手続きに於て憲法上の不備の点が多々あったことは既に明なる事実であり」、海軍第二次補充計画はロンドン条約の欠陥を補うべき第一次計画と同時に、ロンドン条約の直後に立案されたもので、ロンドン条約の不備欠陥を補うのがその目的であったことは言を俟たないというのである。
条約に欠陥があり又その埋め合わせとして第二次補充計画を立てたのだという主張は、見解[#「見解」に傍点]や意図[#「意図」に傍点]の問題に帰着するわけで、本当の当事者であり専門家である軍部の云うことの方が、信頼出来るような感じがするだろう。だが「憲法上の不備」云々ということになると、不幸にして世間はそう安々と同じ調子で「諒解」はしないだろう。憲法の権威ある専門家から、合理的な説明を聴くまではどんな説も徹底しない。
処で東大教授美濃部達吉博士は、東京帝大新聞で、統帥権干犯に関する或る一つの説明を与えている。それによると、全権が軍令部の云うことを聴かないからと云って、少しも統帥権干犯などにはならぬ。軍令部と、統帥権の主体とを混同する如き態度こそ大権干犯ではないか、という要旨であった。なる程そういうものかなとは思うのであるが、之を合理的に反駁した憲法権威者の説をまだ聴いていないから、吾々素人は今の処判断しかねる。軍令部の機能が最近変更されたというような噂を耳にするから、多分海軍側にはこの点に就いて輿論が納得出来るような解明が用意されていることと信じる外に道はない。
若槻総裁の演説は、初めは脱兎の如く終りは処女のようであったが、所謂五相会議[#「五相会議」に傍点]は之に反して初めから黙々とした会合であった。五相の間に対立があったとか、その対立が止揚されたとか云った、禅機に充ち充ちた弁証法的過程の揚句に、公表された処は、「五相会議に於いては外交、国防、財政の調整の根本に関して隔意なき意見の交換を遂げたる結果相互の諒解を深めその大綱に関し意見の一致を見たり」という六十五字である。主として対ソヴィエト・対アメリカの外交政策が問題になったらしく、新聞には色々と書いてあるが、結局の処吾々に判る処は、何か無理に抽象的な報道だけだから、今の六十五字の方が却って五相会議の発表された限りの真髄に当るわけである。
民政党はこの時に当って、一寸異様な要求を政府に提出している。それは、政治経済の革正・教育制度の改善・思想善導・その他も大事だろうが、それより今大事なのは人心の安定で、それには言論自由[#「言論自由」に傍点]が何より大切だから、之を保証しろ、というのである。言論の自由が封鎖されているもんだから色々な流言飛語が乱れ飛ぶので、夫が社会不安の本質だというのである。この「社会学」はとに角として、民政党には(そして多分政友会だってそうだろう)大変言論の自由が必要であるように見える。――処で五相会議は内政国策会議[#「内政国策会議」に傍点]へ続くのであるが、この会議に這入るに際して、陸軍は自分の「対内国策」に対する浮説を否定して非公式に声明している。「最近世上に陸軍の対内国策案に関し、各種の浮説が喧伝せられ、世人に衝動を与うることも尠くないようであるが、陸軍としては対内国策については国防の見地から慎重なる研究を為してはいるが、なおこれを発表するの機に到達しておらないのみならず、従来世上に陸軍案として発表せられたものは、全然陸軍に関係のないものであることを言明する」と(読売新聞十月二十六日夕刊)。
なる程こんなに浮説が色々浮んでいては、人心全く不安なわけで、或いは言論の自由も少しばかり必要になるかも知れない。併し実際には、現に言論は全く自由なのである。例えば陸相は、日本が皇道精神を世界に宣揚することによって、世界平和の方策を自主的に提唱すべきだと論じたと報じられているが、之は全く自由に充ち充ちた溌剌とした言論ではないだろうか。之に対して外務省当局や消息通が、極東モンロー主義(国際連盟の脱退をそう呼ぶのだそうである)を自ら放棄するものだとか、徒らに国際政局を刺※[#「卓+戈」、124−上−10]するものだとか、批評することは、又彼等の自由[#「自由」に傍点]である。この世界平和論と五相会議の内容とがどういう関係にあるのか併し吾々には判らない。
とに角五相会議は終結して、世の中は内政国策会議の時代に這入った。先ず何から議論しようかということ自身がここでは議論の第一歩であったようだが、この頃流行る対立もどうやら止揚されて、後藤農相は農村問題[#「農村問題」に傍点]を提げて立ち上った。併し農村というのは、米穀の[#「米穀の」は底本では「米殻の」]生産や何かはとに角として、何よりも兵隊を産出する土地のことを云うのだから、農相の説明だけでは心細い。農産物販売統制や農村工業化問題(実は工業農村化の問題)に、少くとも農村の教化問題が結び付かなければならなくなる。すると之はもう農林大臣の権限外になりはしないかと心配になるのである。
[#改段]
小学校校長のために
一、小学校校長のために
東京に於ける現職の小学校長四名に元小学校長二名、府立師範同窓会理事、それに出版屋二名が、収賄贈賄の容疑で検挙された。それに続いて某視学と某学務課長も取り調べを受けた。警視庁当局の云う処によると、容疑者凡てを正直に検挙すれば、留置場に這入り切らない程出て来るから手控えているというのだが、噂によれば×××自身にも手を延ばそうとすれば延びそうだということである。
仮に教育界関係の容疑者をつれて来なくても各署の留置場は超満員で、それは左翼の連中を非常に沢山検挙し、而もどういう理由からか知らないが、非常に永く入れておくからで、警察ばかりではなく、刑務所も超満員で建て増しが緊急に必要だそうだが、左翼分子の検挙が盛大だということが、偶然にも、他の小学校の校長さん達に安心を齎しているわけである。
それはとにかく、各小学校で準教科書として使っている学習書とか学習帳とかいうものが、各専門の教員間の研究会で行った諸成果の内から、事実上校長が採用方を決定して、之を出版屋に出版させることになっているものだそうで、そこから校長と出版屋と乃至は其の間に介在する小利権屋との間に金銭上の又饗応上の醜関係が生じたということが、この問題の糸口である。
研究会の成果が学習書という商品の生産に直接関係して来るとすれば、出版屋は当然、その研究会の成員なり又特にはその成果の編集責任者なりと、人間的好みを通じるのは、商業上又社交上の道徳で、大抵の出版屋は著者に御馳走位いはすることになっている。だから、研究会の後で教員達が遊興に誘われたり、校長が御馳走になったりすることは、別に変った風習でもないようだ。校長が収賄したと云っても、例の学習書を出版させるのに、どの出版屋を選ぶべきかという問題の決定ならば、同じことなら、金離れの良い出版屋を選ぶに越したことはあるまい。これはどの村に鉄道を通すかということを決定する場合とは全く違った場合で、鉄道のように変に曲りくねった内容の学習書にならない限り、なぜこの「収賄」が悪いのか、よく考えて見ると判らなくなる。
収賄によって内容が歪曲されたとするならば、それは由々しい大問題であるが、併しそれは同時に極めてデリケートな問題で、それに、そういう問題を問題にするなら、何もわざわざ小学校の参考書などに眼をつけなくても、大学や高等文官試験の参考書に眼をつけた方が、着眼点が堂々としているだろう。
検挙された或る校長は、皆が今迄習慣的にやって来たことで、大して悪いこととも思わなかったと述懐しているそうだが、案外これは、世間の偽善家達に対する頂門の一針になるかも知れない。小学校の校長さんだから先生だからと云って、何も超人間的な特別な人格者である理由はあるまい。そういう怪物に私の子供などの教育を任せるのだと、私は一寸考えざるを得ない。清廉とか金銭に恬淡だとかいう徳性は良いかも知れないが、師範学校の卒業生が皆清廉で恬淡な人格者でありそうだと仮定しているのは最も不真面目な迷信だろう。道徳はもう少し真面目に、上っ調子でなく、考えられなければならない。
本当に問題になるのは、校長が収賄したとかしないとかいう道徳問題ではなくて、学習書という一種の物質の存在の問題なのである。一体何のために、絶大な権威のある「国定」教科書の外に、そうした準教科書が必要なのかというと、どうも問題は、中等学校入学の問題にからんでいるらしい。男の場合で云えば、官立の高等学校や専門学校へ卒業生が沢山入学するのが良い中学校で、そういう中学校に余計入学させることの出来るのが、良い小学校となっているが、そういう良い小学校を造り出すために、わが学習書の存在理由があるわけで、人類の教育の一手引き受け人である小学校校長が、この学習書のために身を誤ったということは、或いは本望であるかも知れぬ。こういう「職責」のためならば、小学校の先生は学習書事件ばかりではなく、まだまだ色々の「不正」をやっているので、例えば秘密な補習教育とか準備教育とかによって、思いがけない莫大な収入を月々勘定に入れている先生は到る処にあるだろう。
労働者は仕事がないから怠けざるを得ないが
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