、小学校の先生は中等学校の入学試験があるから「勤勉」であらざるを得ない。そして勤勉にすれば金が儲かるということは、立派な道徳なのである。
 併し小学校校長問題は学習書問題を糸口としながら、次第に人事移動問題に移動して行くようである。校長は最も多く贈賄した部下の訓導を首席につけ、視学や市区町村会議員や府県会議員に贈賄する。(代議士は偉ら過ぎて効き目はないそうであるが。)或いは最も多く贈賄した者が校長になる。視学や議員それ自身が贈賄の所産で又収賄一般の主体だから、この贈賄は仲々有効だと云わねばならぬ。こうやって一旦校長になったが最後、例の学習書が待ち受けているという段取りである。
 もし之が本当ならば、これこそ本当の賄賂問題になるわけだが、併し同時に之は決して校長先生だけの賄賂問題ではなくなる。最近東京市会疑獄事件の「醜市議」達に対する論告が行われているが、単にこうした疑獄が小学校の校長先生にまで及んで来た迄で、別に取り立てて騒ぐ程の珍らしい事件ではない。それは単に、小学校の校長の社会的地位が「向上」して、「有力者」の仲間入りをしたことに過ぎないのである。一頃のサラリーマンが支店長や課長の椅子を極めてやがて重役になったように、又官吏が地方長官から代議士になるように、又軍人は将官になると政治家になれるように、小学校の先生も校長となることによって、地方、地区の有力者に伍するのである。市区町村会や府県会の議員と同じに、地方的情実に基いた「有力者」で、中央の所謂名士ではないが、この地方的、地区的、有力者であることが、この種の議員と同格に、小学校校長の「腐敗」を招くのである。だが、小学校の先生だと云って、有力者に伍して悪いということはどこにもないだろう。
 東京府学務課は、この間の消息に就いて、仲々よく観察が行き届いている。罪の根柢は[#「根柢は」は底本では「根抵は」]教員や官吏自身よりも、府市会議員の一部又は校長の背後にある大物に潜むものだと見て、俸給の安い弱い教員をいじめながら、こうして巨魁を見遁す処の、警視庁のやり口に不満の意を表している。何も之は、府庁自身の内部に問題が波及しそうだからそう云うのではないだろう。そして教育界全体の意向は、警察当局の教育上無責任な検挙方針が、無邪気な児童の気持を傷けることに、斉しく不満の意を表している。それから又、某校長の懐中から部下の女教員から来た恋文が出たという話を披露した警視庁は、府会で、将来はこうした私行の暴露を慎む旨の、言質を取られている。
 こうなって来ると、問題は、警察当局の検挙行為に対する批判に変って来るのである。思うに教育界が、飲食店やダンスホールと同じに、警察に取っては最も手頃の手答えのある活動場面であることが判ったためだろう。社会は先生[#「先生」に傍点]に対して、特別な道徳上の迷信を有っている。この迷信がこの際、警察権を道徳的に色揚げするには百パーセントの効果を有っているのである。

   二、風紀取締

 学校の先生は尊敬されているが、ダンスホールの先生は軽蔑されている。世間の道徳意識によると、学校教育は神聖だが、ダンスホールは怪しげな卑しいものだ。そこで、ダンスホールに手を入れることも亦、こうした道徳意識を刺※[#「卓+戈」、127−上−3]して、警察権を道徳的に色揚げするには持って来いでないだろうか。蓋し軽蔑されているものの弱点を摘発することは、尊敬されているものの欠点を指摘すると同じ程度の、喝采を博するもので、どれも相手を低めて相対的に自分を高める意識を伴うから、良心の慰安になるわけである。警察権はこれによって、民衆の良心を自分の身方につけることが出来る。
 そこで、不良ダンス教師を洗って見ると、良家の不良マダム達が、面白い程続々として登場して来る。どうせ下等なものだと思って洗って行くと、意外にも「上流社会」の弱点がそれに連っていることが判って来たから、世間の道徳家は一石二鳥の思いで、喜び始める。この頃「上流社会」はどうしたことかあまり評判がよくなく、何とかしないと均衡上から云ってもまずいのだが、併し上流社会の男のやっている仕事を問題にし始めると、色々のさし障りも出て来るし、又好色な世間の道徳家達を刺※[#「卓+戈」、127−上−18]するのに適当でないのだが、幸いにして、良家の不良マダム達が登場して来て呉れたものである。
 不良ダンス教師の対手というのは、別に無邪気な少女や世間を知らない処女などではなく、人情に精通した有閑マダム達なのだから、彼女達の行為に就いては充分彼女達自身に責任を帰せさせることが出来るわけで、従って不良ダンス教師は「色魔」でも何でもない筈であるが、如何に不良だとは云え、美しい上流の婦人達なのだから、当局のギャラントリーから云っても、之を保護しなければならないので、従って不良ダンス教師はどしどし検挙されなければならない。それに、ダンス教師を挙げれば挙げる程、美しい不良マダムが露出して来る。裏長屋のお神さんなどとは違って、上流の一見近づき難い貴婦人達なのだ。
 馬鹿を見たのは不良ダンス教師や、又はそれらしく見做されたダンス教師で、一遍に多数のモダーンボーイ失業者が出来上った。併しそれだけダンスホールが浄化されたことは勿論で、風紀警察は、女学校の舎監のように安心したのである。
 併しダンス教師という職業人は、その職業の鑑札の手前、警察によって風紀取締りを受けねばならぬのは当然だとして、元来が無職で、ダンス教師とは反対に無職であり過ぎるために風紀を乱した有閑マダム達を、風紀警察が摘発したのは、警察権が私事に立ち入ったという観を呈するのを免れないだろう。尤も仮に裏長屋のお神さん達ならば、色々の有利な便宜を所有するだけの金がないから、風紀を紊すにしても私事として紊すことは出来ないかも知れないので、そういう社会条件を変えて見れば、上流夫人達の私事も実は下層の女房達では公共な行為になるだろうから、この有閑マダムの私事を摘発するのは実質から云って悪くはないだろうが、形式から云うと、どうも物好きなおセッカイだと云われそうである。
 処が丁度、某華族の夫人などが中堅で、この良家の不良マダム達の賭博という犯罪が挙がることになって来た。これで物好きなおセッカイも決して、ただの物好きなおセッカイではなかったことになったので、風紀警察の面目も立ったというわけである。
 風紀警察の面目が立ったばかりではない。兼ねがね世間から別世界視されていた名流文人達が、有閑マダム一味と賭博をしていたことが判った。之を抉剔することは必ず世間の喝采を博するだろう。警察権の道徳的面目を飾るには、これに増して手頃な材料はあるまい。処が、元来これ等の文人達は、手口は本職的でも、実は遊戯でやっているので、職業的な博徒のような意気の真剣さがあってやっているのではなかったから、この「犯罪」をもっと呑気に考えているので、中には賭博は罪悪とは考えないと云ったようなことを公言しているから、あまり道徳的な御利益は、この検挙によって得られなかったらしい。
 この検挙はこういう意味であまり成功ではなかったようだが、それに加えて、都下の有力新聞の或るものは、文人賭博の検挙をする位いなら、社会的にもっと大物の、而も世間で相当知れ渡っている事実である、政界や財界の名士の賭博を、なぜ検挙しないのかと、警視庁にねじ込んだ事実さえある。又しても警察当局の検挙行為自身が批判の対象にされたわけで、これによって警察の道徳的な色揚げは、又少し剥げかけたように見える。
 風紀警察から出発した警察権の道徳的な色揚げは、以上のように、只ではどうも理想的に甘く行かなかったが、之を思想警察と結び付ければ、もっと尤もらしくなるだろう。文壇の堂々たる大家も単なる風紀警察の下に、不良少年係りの手で挙げられたのは少々気の毒だったが、今度はそうは行かない。保安部の手によって風紀警察が発動し始めたのである。
 新劇場の面々が、「戯曲源氏物語」を上演することに決定して、入場券も売り、舞台稽古も怠りない頃、当局は突然上演禁止の旨を通達した。その理由は、事宮廷のことに関するのと、それが又おのずから上流社会の風紀壊乱を示すことになるのが重ねて悪いのとの、大体二つであるらしい。良家の有閑不良マダムの摘発は、ここで再び生きて来たわけで、併し今度迷惑したのは、ダンス教師ではなくて、不良ダンス教師に見立てられた光源氏の君である。
 わが国の最も代表的な国粋文学が、元来ならば申し分ない精神作興の効果を挙げる筈の処を、有閑不良マダム達のおかげで、全く逆の効果を生むようにされて了ったことは、独り紫式部学会の人々や劇場関係の人々、そればかりではない天下の全輿論が、深く遺憾とするばかりではなく、恐らく当局自身残念がっていることだろうと思う。何等かの道徳的効果を挙げようという思想的動機から発動した風紀警察自身も、ここまで来ると、却って思想警察と抵触することとなる。困難なのは風紀警察であり、之を更に困難にするものは思想警察なる哉である。
[#地から1字上げ](一九三四・一)
[#改段]


 博士ダンピングへ

   一、医学博士の家元制度

 下関の或る開業医が、長崎医科大学学長を相手取って、自分が同大学へ提出しておいた学位請求論文を審査すべからずという仮処分方を、裁判所に申請した事件があった。結果に於て同医師の申請は却下されたが、この風変りの訴訟に対して世間の注意深い人達は一寸奇異の感を懐かざるを得なかっただろう。「博士濫造」という廉でかねがね世間から胡散臭いものと見られている医学博士に関することだから、どうせ何か裏に変なことが潜んでいるのだろうと思っていると、果してこの事件をキッカケに、長崎医大の「学位売買事件」なるものが展開して来たのである。何と云っても「医学博士」には散々苦しめられて来ている世間の大衆は、それこそ江戸の仇を長崎で討ったように、私かに、やや見当違いな溜飲を下げているものもいるようである。
 事件の真相は無論まだ判らないが、長大の勝矢教授が弟子を博士にしてやる毎に数百円ずつの金を取っており、又その他様々な収賄をやっていたということが判ったらしく、これに就いて贈賄者として四五名程の同博士門下生の博士達がいるのだそうで、この六名は遂に強制収容の上起訴されて了った。収賄の嫌疑濃厚なものは少くとも他に二名の教授を数えることが出来、また贈賄の容疑者は全国に及ぶかも知れないということである。それからこの問題は単に独り長崎医大だけの問題ではなく、全国医科大学乃至は医学部にも拡大するかも知れないと云われている。そうなると又、単に医科や医学部ばかりではなく他学部にも飛火するのではないかと心配する向きさえあるようである。
 長崎医大では、当の勝矢博士の弟で矢張医学部教授をしている人が、大学の不潔を潔しとしないで辞職するし、学生は勝矢博士以下三教授の試験を受けないと主張するし、学生、卒業生、助手、助教授達は大学浄化の運動を巻き起こそうとしている。確かにこれは祓い潔めの儀式としては甚だ当を得た行動だと思うが、儀式は要するに儀式に過ぎない、「医学博士」の本質はそうむやみに祓い潔めることの出来るものではないのだ。
 世間では医学博士の濫造[#「濫造」に傍点]を盛んに気にしている。あまり多数に製造すると博士の価値を落しはしないかという心配であるらしい。だがどんなに沢山医学博士を造っても、それによって博士の価値が下るとは受け取れない。生産過剰で博士がアブレたり、ダンピングで博士が安くなったりするのは明らかだが、それは博士の価格[#「価格」に傍点]が下落することで誠にあり難いことだが、それは必ずしも博士の価値を下げることにはならぬ。価値と価格とどう違うのかというなら、まずマルクスの資本論の初めの部分でも読んで貰うことにしておく。
 なる程医学「博士」は濫造されている。今日全国の博士約九千人の内、医学博士は約六千八百人。一日平均三人三分の割で製造されているということだ。某帝大医学部では、
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