鼻であしらっていた相当批判的な読者でも、段々この事件に好意的関心を有つようになり、何か自分と一脈共通したものをそこに感じるようにさえなる。でウッカリしていると、この重大な×××××××したりなんかしたくならないとも限らない。だからこの上、新聞の一種の煽動的報道の尻馬に乗って、ウッカリ犯人××というような犯罪を犯さないために、五・一五事件というテーマ自身を積極的に黙殺[#「黙殺」に傍点]するのが、私の方針である。で決して私は今、五・一五事件の公判などを問題にしているのではない。
さて、戒厳令のためとかクーデターのためとか甚だ尤もなことを云うのである。だがこれが少くとも治安[#「治安」に傍点]を維持[#「維持」に傍点]することにならないことは明らかだ。仮に一市民である私の首が、何かの非合法的な組織によって覘われているとするなら、私の住むこの社会は決して治安の維持されている社会ではあるまい。治安維持とは、正にこうした事態を未然に防ぐことでなくてはならぬ。単に人間が大勢集まって大きな声を出したり、腕を組み合って元気好く歩いたり、自分の自由な考えを印刷にして配ったりすることは、何も治安を乱るものではない。社会に於ける或る一定の人間の生命が覘われるということが、何より直接な重大な治安の紊乱なのだ。
日本には治安維持法という立派な法律がある。だがそう云っても今、この法律を五・一五事件や血盟団事件に適用しなかったとか、したとかというようなことを問題にしようとするのではない。又「治安維持法」という名を有ったこの法律が、一体本当に治安そのものを維持するための法律であるかないかは、一般にレッテルと中身が一致するかしないかが哲学的に決まってはいないように、決っていないのだし、それに治安維持という法律上の概念が何を指すかは、法律学解釈専門家の合理化的解釈を俟つほかない。日本の政府はそうした合理化的解釈をさせるために、法科大学を、即ち今の帝大法学部を、造ったのである。仮に京大の法学部などが横車を押したにしても、教壇や試験場での机上の解釈は尻目にかけて、大審院の実践的解釈が物をいう。法律の世界でも――他の科学的世界に於てさえ何とも知れないのだが――、大学教授よりも判検事の方が、科学的権威があるのだ。
とにかく治安維持法という名称を有った法律が行われているのは、立派な事実である。行われない法律もあるかも知れないが、治安維持法に限って、そんな遊んでいる法律ではない。私は法律というものを、一種の道具と思っているが、道具というものは、使われれば使われる程、進歩するものである。この法律は制定されてからそんなに年数の立つものではないに拘らず、実に急速な進歩をするので有名であるが、それがどんなに多く使われる法律であるかということ、即ちそれがどんなに重宝な法律であるかということは、この進歩のテンポの旺盛な点から測定出来る。
最近一遍「改正」された治安維持法が、この頃再び、司法省の原案に基いて「改正」されそうである。最初の該法文は、「国体の変革又は私有財産の否認」を企てるものといった具合に、国体と私有財産制とを同一視させないとも限らないような、それ自身危険な、自分自身がこの法文に引っ懸かることを告白しそうな、性質のものだったのが、第一次の改正によって、二つの文章に分離された。国体の変革は私有財産の否認よりも重大だったからである。これによって吾々は、国体が私有財産制とは無関係であるということを、即ち又、国体の変革を須《もち》いずして私有財産の一種の否認も存在し得なくはないということを、教えられたわけである。これは全く驚くべき「日本民族の天才的資質」に相応わしい予言だったのである。なぜなら後に、×××××××××××は恰も、国体を顕揚するために財産私有者の巨頭達を××××を考え付いたからだ。
今度の改正案は、第一次の改正案のこの調子をもっと徹底したものに外ならない。例の二つの文章は、今度は独立した二つの別個の条文に分けられるのだそうである。この法律の精神が、この二つのものを如何に分離するかという処に力点を置いているということは、大体この第一次、第二次の改正の方向から、見当がつくだろう。
でこの法律は例の二つの条項の間に、飴のような延展力を与えることに苦心している。飴というものは引っ張れば引っぱる程、延展性を増すものだ。で、まず犯人は不定期刑[#「不定期刑」に傍点]を課せられる。この不定期刑にくぎりを付けるものは、「改悛の状」なのである。改悛の状を示したものは、起訴留保にもなろうし、隨時仮釈放も許可される。それで不安な場合には、「司法保護司」というのがいて、起訴猶予、起訴留保、執行猶予、仮釈放などの犯人を、保護し監察する。併しもし万一、こうした保姆のような道義的で涙のこもった待遇にも拘らず、改悛の状を示さない[#「示さない」は底本では「示さい」]ものは、たとい所定の刑期を終えても、引き続き豫防拘禁されるかも知れない。死ぬまで改悛しない者は死ぬまで豫防拘禁されるかも知れない、判ったかというのである。
転べ! 転べ! 昔キリシタン転びというのがあったそうだが、今日では「転向」という名が付いている。「改悛の状」を示すとは転向するということであるらしい。だが、何から何に転向するのか。云うまでもない、少くとも、サッキ云った、重大な方の条項から軽微な方の条項にまで、転向する必要があるのである。「革命的エネルギー」という言葉があるが、それは一種のポテンシャル・エナジーで、転向・転下によって、このエネルギーがディスチャージ(?)されるわけだ。云わばこの落差の大きい程、改悛の状が顕著なわけである。――で、今度の改正案は、この落差を出来るだけ大きくしようという改正案だ。例の二つの条項の間の位置のエネルギーの差をなるべく大きくして、改悛という道徳的エネルギーに転化しようというのである。治安維持法という警察的法律を、改悛転向法[#「改悛転向法」に傍点]という修身教育教程にまで、改正しようというのである。
問題は修身[#「修身」に傍点]にあるのだから、該法文で規定された目的を有つ秘密結社やその外廓団体に這入っていなくても、即ち組織に這入っていなくても、個人の日常の行儀に不埓なことがあれば、この修身教育教程に触れるわけである。国体変革及び私有財産制度否認の「宣伝」をするものは処罰されねばならぬ。気狂いでもない限り人間は滅多に独言などは云わないもので、口を開けば、それは自分の信念を他人に向って力説するためである。論理学では、命題というものをそういう意味に取っているのだ。処が社会学的には、これが即ち「宣伝」に外ならない。そうすると、この法律は、余計なことは云わずに、大人しく黙っていなければいけないぞ、という有難い家庭的な教訓でなければならない。
法律が道徳に基くという法理学者の説は本当である、それから、道徳は修身だという倫理学者や教育学者の説も本当である。道徳家や人格者は決して、こういう治安維持法などには引っかからない。五・一五事件などがこの法律と無関係なのは、被告が一人残らず人格者だからだろうと思う。
法律が階級的用具として偏向して行かずに、倫理化[#「倫理化」に傍点]されて行くということは、慶賀の至りと云わねばならぬ。
二、教育の倫理化
法律さえ倫理化される世の中である。況んや教育をやである。一体日本では、教育と云えば、要するに修身を教えることだったのであるが、それが更に倫理化されるというのだから面白い。
七月十四日の「思想対策閣議」では、この教育倫理化のプログラム原案が提案され、文相を初めとして法相、逓相に至るまで、色々と希望を述べながら、之を承認したそうである(以下東京朝日新聞七月十五日付)。
それによると、第一に、教育の重点を人格教育[#「人格教育」に傍点]に置き、教育の功利化(?)を防ぐことにするらしい。何より徳育[#「徳育」に傍点]が大事であり、学校外に於ても学生生徒の徳性涵養に留意するそうである。こう抽象的に云っては、一人前の読者には何のことかサッパリ判らないだろうと思うが、人格教育というのは、例えば教員の任用に際して、その「学力のみに著眼せずして人格を重視」することをいうのである。これによって見ると、今まで教師をしている人間の中には、人格のない動物のような人間が多数いたらしいということになるが、之は全く驚くべき事実である。この事実に較べたら、今後どんなに無学で白痴のような人格者が、大学教授になろうと、数等増しなわけである。併し之がうまく行って教育の倫理化[#「倫理化」に傍点]が阻止されるとなると、役に立たない人格者ばかりが卒業して、当局が気にしている「高等遊民」の数ばかりが殖えることは必然だが、それはどうなるというのだろうか。――それから徳育というのはどうも国史教育[#「国史教育」に傍点]のことであるらしい。而も国史の「単なる史実」を教授するに止まらず、「日本精神闡明のため」の教授をすることをいうのである。「単なる史実」以外のもの、即ち史実でない[#「でない」に傍点]ものを教えることが、徳育と名づけられる処の国史教育だそうである。処で「修身の教授を改善しかつ各学科目の教授に当りて一層徳育に留意する」とも云っているから、各科目を通じて忠実でないことを、一般に事実でないことを、教えることにするらしい。
教育を倫理化することは当局の勝手かも知れない。併し科学[#「科学」に傍点]がそういう具合に安々と教育化されるかどうかは、当分当局の勝手では決るまい。真理はもっと皮肉に出来ているのだ。――科学を倫理化するのに恐らく最も手頼りになるものは宗教である。そこでこの「思想対策閣議」でも「宗教を振作し宗教家の覚醒を促しかつその活動を積極的ならしむ」るというようなプログラムをつけ足してある。この言葉は一寸利口そうであるが、併し当局が宗教[#「宗教」に傍点]というものの現実をどの程度に理解しているかになると、全く心細いのである。例の「敬神思想」と云った程度のことなどを考えているのだと、多分バチが当るだろう。文部省など、もう少し勉強[#「勉強」に傍点]しなければ、科学を倫理化することに成功しないだろう。それが成功しない以上、教育の倫理化だって成功しはしない。
三、度量衡の道徳
昭和九年、即ち一九三四年(国際的にはこう云わないと決して通用しない)、六月一杯で、尺とか升とか貫とかいう日本古来の旧度量衡が廃止されることになっている。一九三四年七月一日から所謂メートル法(C・G・S・システムはその一種の部分)が専ら実用になる筈になっているのである。尤も時間は、度量衡の外で、不思議にも、大体国際的[#「国際的」に傍点]であるようで、国際労働会議に出て日本の政府、資本家、代表が労働時間の日本に於ける特別延長を主張しても容易に相手に呑み込めないのは、決して時間の尺度が国際的でないからではない。夫々の国民の歴史が、全く別々で相互の間には絶対的認識不足しかあり得ないと云われているのに、これ等の諸歴史を貫く時間の尺度が国際的であるのは、不思議である。西歴で勘定するか「皇紀」で勘定するか、それとも年号で勘定するかは、物指しの起点を零におくか六六〇に置くかとか、長い物指しを使うかわざわざ短い不便な物指しを使うかとか、いうだけの区別で、物指しの刻み方の問題とは関係がない。
で時間に就いては、物指しの物理的性質に於ては国際的であるか国粋的であるかという問題はあろうとも、物指しの数字的性質に就いては、遺憾ながら全く国際的なので、問題にならない。
問題になるのは長さ(及び容積)と重さに就いてである。でこの二つのものを来年の七月からは原器に基くメートルとグラム(之もメートルに基く)とで計らなければいけないという「メートル専用強制」の法律案が出ているのである。すでに軍隊では昔からメートル法で教育をしているし、小学校その他でも十年以来その積りで教育している。エスペラントと同様に、単に
前へ
次へ
全41ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング