分自身の個人的性能やなどを理由として、そう云っているのであって、即ち自分自身の個人的な条件に就いてそう云っているのであって、マルクス主義者の客観的な信念や行動に関する見解が動揺[#「動揺」に傍点]したからそう云っているのではないのである。之は各種の所謂「転向」物とは一寸違った物語りなのだ。
 聞く処によると、博士の資性は決して実践家、政治家に適したものではないそうである。京大時代の博士は、学者としての科学的信念から云っても、教授としての行政的手腕から云っても、卓越したものがあったそうだが、丁度この二つの点が禍いして、例の河上事件となり、経済学部教授会は「自発的」に博士の辞職を決議した。滝川事件とは異って大学の「自由」も文部省の「顔」もつぶれずに済んだのは同慶の至りであったが、その代りに博士は政治家として新労農党の樹立、やがてその解消、地下潜入、という「山川」を越えては「越えて」辿り行かねばならなかった。之は博士自身にとっては外部から来る圧力に押された迄だったのである。(之に反して京大系統の博士の旧弟子達は、逸早くも反河上派に、反マルクス主義の信奉者に「転向」して了ったのである。)――博士は一体書斎の人だと云われている。
 だが同じく書斎人と云っても色々ある。博士は独自性に富んだ学者というよりも、寧ろ最も優れた大衆啓蒙家であるようだ。無論ブルジョア社会に於ては、最も代表的な学者達に対してもまず第一に必要なのは彼等に対する啓蒙だということを勘定に入れてそういうのである。大衆啓蒙家としての博士の情熱はその人道主義的な経歴に負う処が少くはあるまい。――吾々が老後の博士に深く期待するのは、この啓蒙家としての博士の活動なのである。博士の個人的没落は、客観的に見れば決してただの没落ではないし、又元来博士は没落する程に本当に高揚していたのではなかったとすれば、個人的にさえ没落でないとも強弁出来る。まして之は「転向」などではないのだ。
 例の博学な宮城検事正は処で、こう感想を洩している(東京日日七月七日付)、「そこでいつでもいうことだが共産党に対しては司直はあくまで峻厳な態度で臨むことが必要だ、これによってかれ等は転向の機会を掴み同志に対する口実が出来るのだ、尤もこの場合家族達からは出来るだけ本当の愛を注いでもらう必要がある、司直の弾圧と骨肉愛と、これを以てすれば共産運動の絶滅も敢て期し得ないことではない」。――これによると、河上博士という一人の左翼学生が弾圧と骨肉愛とで遂々「改悛」でもしたように見える。博士はおとなしく勉強して、大学でも卒業したら親爺の銀行か何かに勤めるもののようである。博士の存在をこんなに大急ぎで小さく見せるというこの確実な手腕は、一寸小憎くらしくはないだろうか。浅墓な世間はこれで博士をスッカリ軽蔑し、そうしてスッカリ安心するだろう。

   三、交叉点

 東京で、現職の巡査が、巡査という地位を利用して、管内の人妻と通じているのを、その夫に見つけられて、他の交番でつかまったという出来ごとがある。それから暫く立って岡山県に之も現職巡査の銀行ギャング事件が発生した。制服を着用して支店長に金庫へ案内させておいてその支店長を絞殺して三万円あまりの金を取ったという事件である。三月以降警視庁管下だけでも、現職巡査が拐帯、泥酔暴行、賭博現行、収賄、等々で挙げられたのは七八件に止まらないのである。之では全く警察の威信が疑問にならざるを得ないだろう。世間では之を警官の「素質低下」によって説明出来ると思っているらしいが、それにどれだけの実証的な根拠があるか知らない。警官の素質が低下するのは、一体好景気の結果だと考えられるが、この頃のような不況時代には、却って警官の素質は良くなっている筈ではないかと思う。素質は良くなっているのだが、素質をよくした不況というこの同じ原因が、良い素質にも拘らず警官の各種の犯行を産んでいるのではないかと思う。泥棒やスリが増えるのと××して、××の犯罪者だって増すだろう。巡査と犯人とは決して××な存在ではないのだ。
 巡査だって普通の人間だから、どんな間違いや犯罪を犯さないとも限らない。警察当局の威信というような問題を別にすれば、ここには何の不思議もないのだ。まして巡査はあまり××××××××いる方ではないだろうから、「犯人」候補者(!)たる××××××××××××ものではない。尤も彼等が階級的に行動する時は決して自分の側の階級にはぞくさないが、そして為政者達はそういう矛盾に気付いたためか、この頃盛んに警官の身分保証や、警察官後援会の設立を計画しているのだが、続々犯行者を出している処だけから見ても、立派な「×××」の味方に外ならぬ。
 ただ世間で警官の犯行を特に不埒として感じるのは、巡査が巡査たる地位を逆用して犯行に利しているという点なのである。こうした巡査の特権[#「特権」に傍点]に就いての矛盾の感じが夫なのである。そして人民(?)に於てはこの矛盾感は中々深酷なのだ。
 巡査は人民(?)に対して特権の所有者だ、人民がただの[#「ただの」に傍点]人民である限り、到底巡査の特権の×××××に向って、太刀打ちすることは出来ない。そういう意識は人民の本能の内で中々深酷なのだ。一つ何とかして××の鼻をあかしてやりたいのである。処で之が大阪某連隊某一等兵の入営前からの願望だったと仮定しよう。
 入営して見ると、とかくガミガミ云われながらも、「地方人」に対しては特権意識を有つことが出来る彼自身を発見する。俺は××の軍人だ。刀に手袋なんかを下げている巡査なんかが何だ。それに交通巡査などは、兵隊にして見れば××みたいなものではないか。それから、以前大阪で兵隊が続々と警察へ引っぱられたという警察の不埒な仕打ちもあると聞いている矢先だ。こんなことを考えながらこの一等兵は天神橋六丁目の交叉点をつっ切ったのである。とそう仮定しよう。
 ××××××××のような彼等が何だ。
 ××の時だって吾々が出なければ収りがつかなかったではないか。吾々は憲兵も持っていれば独自の裁判所も監獄もある。戒厳令も布ければ外交政策も植民政策も有っている。経済的、技術的にも自給自足だ。併しこの頃では何よりも遠大な社会理論を有っているのだ。×××の前には何物もないのだと第四師団司令部は考える。――大阪の警察部は併し「警官も帝国の警官だ」と云って譲らない。
 陸軍省と内務省とが、今度は、××しようかしまいかを考慮している。××とブルジョアジーとが次に××しようかしまいかを考慮し始めなければならなくなるだろう。
 一等兵は自分の日頃の願望が意外にも、満足され過ぎるのを見て、大変なことになったと後悔し始める。併し銃口を出た弾はもう自分の自由にはならない。自分は軍服を脱げば一人の××××に過ぎない、あの交通巡査だって××をとれば矢張俺と同じい××××かも知れない。処が俺達の初めのほんの一寸した×××、俺達自身をおいてけぼりにして、独りでドシドシ進んで行く。これは一体どうなることだろう。元々が小心な彼は、この頃自分に対する×××の弁護的な態度にまで気が遠くなるものを感じるのである。

   四、修身と企業

 巡査の特権が矛盾を感じさせたのと同じことが、教育家(「先生」)の特権に就いても起こるのである。
 成城学園は小原国芳の名と自由教育の名とによって知られているが、その当の校長小原氏が学園を追い出されて、代りに三沢氏が校長に直るということで、成城問題が始まったことは読者の知る通りである。
 小原氏という人は全く東洋のペスタロッチ(教育家は偉い人をみんなペスタロッチと呼ぶことにしている)その人で、学校経営には年少から一貫した趣味を示している人だそうであって、財団法人成城学園の外に、自分だけの玉川学園という労働学校(?)も経営している。――氏によれば、教育の理想は、先生が講義をする代りに生徒に勝手な仕事をさせて之を指導することにあるそうだ。教育評論家達は之をブルジョア自由教育と批評しているが、多分当っているだろう。問題の京大前総長小西重直博士(教育学専攻)に、恩師で且つ有力者だという理由で、この間まで学園の総長に据わって貰っていたことは時節柄面白いが、本間俊平というような「聖者」を引っぱって来たり何かするのは、どういう意味だか好く判らない。だがとに角、肝心のこのペスタロッチが学園を追い出されるのでは、千円から三千円迄もの入学献金を奉納した小原宗の「父兄」達は、黙っている筈はないのである。
 三沢氏も亦特色ある人物で、台湾高等学校の校長から、京都帝大の学生課長として乗り込んだ人である。多分赤色教授への重しの意味で勅任の学生課長を必要とする処から、選ばれたという噂であったが、学生課には過ぎ者の物判りの良さ(即ち自由主義)の所有者だったので、成城落ちをしたのだそうである、個人に就いての噂さはどうでもいいが、府の学務課から三沢氏排斥教員の解職を命じて来た点はここからも理解されよう。
 小原氏が態よく逃げ出して了えば氏の身柄にも傷がつかずに済んだものを「師弟の情」か何か教育家の特権にぞくするものを利用しようとしたために、三沢派の教員から背任横領で告発され、藪蛇の結果を見たのである。
 四カ月に亙る学園の紛争自身は、児玉秀雄伯の総長就任と共に解決したが、解決しないのは学園の会計に関わる小原氏の一身上の問題である。結局氏の背任の事実が司直の手で明らかになったので、紛争が解決した今日、告訴を取り下げるにも時期は遅すぎるという破目になって了っているのである。
 小原氏は成城の公金五万八千円をまんざら私用にばかり費したのではない。その大部分は例の玉川学園の「学校事業」に使っているのだから、学校事業家としての氏としては堂々たるものではないかと思う。
 新聞で見ると(読売六月二十五日付)、成城へ子弟を入学させている武者小路や加藤武雄、北原白秋の諸文士(いずれもあまり進歩的な顔振れではないことを注意すべきだが)が、小原擁護のための声明書を出し、「ペスタロッチの信条を信条として一生を新教育のために捧げた氏を、その恩顧を受けた教育者である人間が、金銭上の問題で当局に訴える」という「非人間的行動」を非難したそうであるが、この弁護の仕方よりも、私の弁護の仕方の方が、よほど筋が通っているだろう。
 世間では小原氏を「教育家」だと思っているから、教育家の特権を濫用する者として、小原氏を非難したくなるのである。併し今日教育家というのは「先生」ということで、学校使用人のことなのだ。こういう「先生」が教育事業のために公金を私消することは、巡査が収賄するのと同様に、特権の矛盾を暴露するもので、大いに非難されるべきことだろう。世間は小原氏を失礼にも例の巡査並みに取り扱おうとする。だが小原氏は決して巡査並みの「教育家」などではない。氏は教育事業家[#「教育事業家」に傍点]なのである。昔、社会事業とか慈善事業とかいう、修身と企業との中間形態が存在したが、それが今日教育界にだけ残っている。それが教育事業なのだ。で小原氏は今、身を以てかかる中間的残滓の清算に当ろうと決心しているわけになるのである。
[#地から1字上げ](一九三三・八)
[#改段]


 倫理化時代

   一、法律の倫理化

 一国の首相が、首相官邸で暗殺される。国務大臣や有力な政治家・有名な資本家の首が覘われる。警視庁自身が襲撃される。其他其他。そんな単純な直接行動をやって何の役に立つかと詰ると、之によって戒厳令とクーデターとへの口火を切ることになるのだと、甚だ尤もなことを云う。
 私は何も、五・一五事件や更に溯っては血盟団事件に対する公判に就いて批評を下そうとしているのではない。五・一五事件の如きは、全国の新聞紙が、朝から晩まで、喋り立てている事件で、例えばどういう不快な節まわしの流行小唄でも、朝から晩まで聞かされると、いつかは耳について、何となく忘れ難くなるものだが、それと同じに、こう朝から晩まで、即ち朝刊といい夕刊といい、囃し立てられると、初め
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