知っているのである。理論抜きの有力な説得力は外でもない、何等かの意味の××である。それが最後の何よりもの頼りである。之が文部大臣の本当の[#「本当の」に傍点]「権威」なのだ。……
だこう推論して行くと、どうやら×××の背後にある背景というような神秘的な問題に這入って行きそうだから、そういう妖怪談めいたことは止めにしよう。
滝川教授問題は、単に滝川教授一個の、又単に京大法学部乃至京大の、問題ではないし、又単に鳩山文相一個の、又単に現内閣の、問題でもない。今更そんなことを云うのは、野暮の至りだろう。つまりそれはファッショ化したブルジョアジーが広汎な自由主義[#「自由主義」に傍点]に対する挑戦なのだ。自由主義と一口に云っても様々な段階の区別を分析する必要があるが、この頃ではその段階が一つ一つ順々に侵害されて行くのである。この侵害運動はやがて東大の法学部や、又遂には京大の経済学部にさえ及んで行かないとも限らない。そうした教授たちは、この際よほど気を付けて自分の態度を声明しておかないと、その場になってからでは相手にされないかも知れないのである。
この間出来上ることになった「思想家・芸術家・自由同盟」はこの問題に就いて文部大臣あてに抗議書を送ったそうである。これは元来ナチスの文化蹂躙に対する抗議を提出するために代表的な知識階級人が集会したものだが、併し、そういう抗議文をヒトラーに送ると、恐らくヒトラーは、それよりも先に、日本のファッシストに抗議したらどうか、と云って来るに違いないというので、鋒先は遂々文部省に転じられたわけである。文士やジャーナリストまでが集って抗議しているのに、「敬虔」なる態度を以て静観しようと申し合わせたという京大文学部の教授達や、滝川教授罷免の策動をしたことを学生団から暴露されてあわてていると伝えられる京大経済学部の教授会などは、一体何をマゴマゴしているのであるか。東大の法学部にだって、××ねらわれている教授は二三名はいるそうだが、それはどうなるのか。リベラリストも単なるリベラリストとしては済まなくなって来たのではないか。
個々のリベラリストも一旦結束すればもはや単なるリベラリストの集団ではない。滝川教授が赤いならば、かれを擁護して立った教授会及び法学部全体は少くとも同等以上に赤い筈だ。だから文部大臣は文部大臣の権威を以て遂に四十名の赤化教授乃至教授候補を××したわけである。天下のリベラリスト達はこの点に就いて、わが文部大臣に深く感謝の意を表しているのである。ただこの感謝の意志が、声明書や抗議書や文相辞任勧告というような不遜な形態を取って現われているに外ならない。文相はこれ等の意志表示が、感謝以外の他意のあるものでないことを深く諒とすべきである。
[#地から1字上げ](一九三三・七)
[#改段]
転向万歳
一、転向万歳!
六月十日の新聞では、一斉に、佐野、鍋山の「両巨頭」の転向が報じられた。佐野巨頭の動揺は去年の十月頃からだそうだし、鍋山巨頭の動揺参加は今年の一月頃だと、宮城検事正は語っているから、多分当局は永らく希望にワクワクしながら、固唾《かたず》を飲んでこの日を待っていたことだろうと思う。花々しく蓋が開けられた時、左翼の陣営にはどんなに痛快な大地震が揺れることだろうかと。
実際、左翼の陣営などにはいない処の私の如きは、この記事を見て全く驚いて了ったのである。驚いて了ったのは無論私だけではあるまい、大抵の人間は少くともすっかり驚いたことだろうと思う。――何しろ、新聞が要点をかい摘んで教えて呉れる処を見ると、彼等両巨頭が、突然、日本民族の優秀性やアジア民族と世界資本主義との対立、対支那及び対アメリカ戦争の積極的肯定や天皇制の強制、其他其他を主張し始めたというのである。ロシアにもどこにも行ったことのない吾々は、コミンテルンというものがどういうものかは良く知らないけれども、少くとも共産主義[#「共産主義」に傍点]というものは、凡そこうしたファッショ的テーゼの正反対をこそ主張するものだと思っていた処だから、全く途方もない「転向」もあったものだと思ったのである。世間の人達が、これをファッシストによってディクテートせしめられたものに違いないと信じたのに無理はない。
処がその日の夕刊を見ると、無産弁護士団が、この両巨頭を市ガ谷刑務所に訪問して、二人が「顔色一つ変えず」に、夫が本当だと断言するのを聴いて来たと報じてある。そして刑務所帰りの弁護士達の写真までがその証拠として掲げられている、ということは即ち新聞に出たことが決して「デマ」ではないということである。と同時に、この転向がファッショなどにディクテートされたのではなくて、完全に自発的に「心境の変化」を来したことに由来するものだということになる。で転向が「本当」だということはもはや疑う余地もなく保証されているのである。
併し新聞が伝える限りでは、この新しい主張がなぜ正しいかという点に就いては云うまでもなく、こういう転向の過程がどう理由づけられているかも一向説明されていない。そして唯々「共産主義を蹴飛ばし」「ファッショに転向」したという、一種の託宣めいた結果だけを、繰り返し繰り返し報道しているにすぎない。こうなると新聞は妙に不親切なものである。
尤も新聞は同時に吾々に一つの希望を与えることを怠ってはいなかった。例の七項からなる上申書「思想転向の要項」の全文と「緊迫せる海外情勢と日本民族及びその労働者階級」(副題、「戦争及び内部改革の接近を前にしてのコミンターン及び日本共産党を自己批判する」)という八項からなる声明書とが検事局から出版されることに決ったということを新聞は報じているのである。この出版物が読んでも判らない程度に伏字になったり、発禁になったり、しないことを吾々は衷心から希望せざるを得ないのであるが、とにかくこの出版物が吾々第三者の立場にあるものの疑問を解いて呉れる唯一の希望だと考えられた。こうして新聞は鮮かに「本当」の報道の責を検事局に転嫁して了ったようである。
処で、検事局の責任編集になる両巨頭の例の文書が早く出ればいいがと思っている矢先、吾々は思いがけぬ福音にありつくことが出来た。というのは、本誌と『改造』とが逸早く、佐野学、鍋山貞親の原稿全文「共同被告同志に告ぐる書」を掲げているのである。この福音は、新聞記者からでもなく検事局からでもなくて、雑誌編集者の驚嘆すべき手腕から来たことは明らかである。吾々は編集者が、私信のやり取りさえ困難な刑務所内からこの貴重な政治的論文を獲得して来た精励の程に、又この論文を殆んど一字の伏字もなしに印刷した英断の程に、敬服せざるを得ないと共に、一体之は原稿料を払っているかしらという、一寸世帯じみた連想も起こすのである。というのは、同じ原稿がこの二つの雑誌に印刷になっているらしいからである。之は普通の原稿ではあまり見受けない現象だ。
この文章又は例の「要項」の摘要に対する批評は山川均氏(『中央公論』)や青野季吉氏(『読売』)等の「左翼民主主義者」達から、相当コッピドク敢行されているから、両巨頭の思想がどこで間違っているかということは、否どこで正しいということは、読者がすでに充分知っている処だろう。知識と経験との乏しい私などが、とやかく云うべき筋合ではない。私は、札つき[#「札つき」に傍点]の「左翼」の人達が之に対してどういう批判を下すかを、普通の印刷物の上で見ることの出来ないことを遺憾に思っているだけだ。
併しこの「同志に告ぐる書」を読んだありのままの感想を云うならば、どこにも別に「ファッショになれ」という言葉は書いてないことが、やや意外だったと云わねばならぬ。新聞の紹介を読んで、両「巨頭」がスッカリ、ファッショになって了ったものと思い込んでいた私は、だからナーンダこんなことかと思ったのである。尤も例のファッショと間違いられそうな諸根本テーゼと共産主義との関係は殆んど説明されていないから、一見共産主義とは関係のないことを論じているように見えるが、併し元来之は「同志に告げる書」なのだから、同志に向って今更共産主義を説明する必要はなかろうではないか。
問題はだがそこにあるのである。例えば私は、云うまでもなく如何なる意味に於ても彼等の「同志」などではない。それだのに私は「同志に告ぐる書」を読まざるを得ない。それが唯一の福音だったからである。だから私は、言わば雑誌編集者の紹介によって、両巨頭から同志としての待遇を受けるの光栄を有たされたわけなのである。而も大事なことに之は何も私だけの特権ではない、幾万という雑誌読者が皆そうした光栄に浴するのである、否幾百万という新聞読者までが、この光栄の結論的な「摘要」の託宣にあずかるのである。――だが一体、ファッシズムの怒濤のおかげで、今日ロクロク物も云えず息もつけずにいるような吾々娑婆の俗物達と、獄内の被告同志とを、一列に取り扱おうとするのが元来少し無理ではないだろうか。
「同志に告ぐる書」は、同志によって批難[#「批難」に傍点]されるだろう場合ばかりに気を配っているようだが、同志の待遇を受ける光栄を有つだろう「世間」から喝采[#「喝采」に傍点]を博するだろうことに就いては、一向自信を持っていないらしく見える――併し世間の心ある識者達は、いずれも之に熱烈な喝采を送るのを惜んでいない、という吉報を、修道院のように静寂な獄内に坐している巨頭達の耳へ、早く入れてやりたいものである。――満州問題の成功や近くは円価の反騰、農村の「好況」などでこの頃益々気を好くしている日本の世間であるから、(ロンドンの「ブルジョア」経済会議のダラしなさを見ろ!「ブルジョア」軍縮会議が何だ!)この「転向」によってすっかり悦に入っているものは、決して裁判長や教悔師ばかりではない。
土堤評によると、党員の相当上の方へ行くと、この転向に追従する人間も案外少くないかも知れないということである。だが又、当局が皮算用している程に痛快な大動揺も、なさそうだという噂さである。前に云った山川均氏や青野季吉氏などは、それ見たことかと云った調子で、軽くひねって片づけているような始末である。
大衆は案外、英雄崇拝[#「英雄崇拝」に傍点]をしないもののように見える。そうだとすると、「巨頭巨頭」という招牌もそれ程効き目がないかも知れない。この間ある有名な左翼出版屋が、ファッショに転向したそうである。ナチスの焚書に倣って、日比谷公園で過去の出版物を焚刑に処するそうだという噂まで製造された位いである。だが之は「巨頭」の転向より無論前だから、原因は無論「巨頭」の転向などにあり得ないことは云うまでもない。原因は外にあるのだ。「巨頭」だってこの原因には意識的無意識的に動かされないとも限らない。
二、没落
転向問題で以て花見のように陽気になっている世間に、更に景気をそえるために、又吉報が現れた。河上肇博士が「没落」したというのである。河上博士自身にとっては没落するかしないかは大問題だが、社会的結果に就いて云えばあまり大して問題ではない筈だと思うのだが、世間が之を以て左翼の崩壊の吉兆だと見たがる処に、博士の没落の社会的な意味があるのだ。もしそうならば之は単に一個の河上博士の個人的な大問題ばかりではないことになりそうである。抜かりのない世間は事実、之を例の転向問題と結び付けてはやし立てている。――だが世間は何と浅墓なオッチョコチョイに充ちていることだろう。
あくまで率直な博士は、自分が今日、到底共産主義者としての、即ちマルクシストとしての、実践活動に耐え得ないことを有態に告白し、マルクス主義を奉じながらなお且つマルクス主義者[#「主義者」に傍点]ではあり得ないことを、独語している。共産主義者としての自らを葬り、共産主義的学徒として資本論の飜訳を完成しようと告げているのである。その声や誠に悲しく、その心情のまことに切なるものがあると云わねばならぬ。
だが博士は、年を取ったことや身体が弱ったことや、又恐らく自
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