なおまだ抽象的だという心配があるなら、それが現政府に於て事実上何を指しているかを挙げて見せよう。文部省は三月末に高等学校并に中等学校の教授要目を改正した。国史や国文の類の時間を殖やし、教学刷新評議会は「国体の本義」の内容を決議し、更に教学局の新設も予定されている。文理大や一二の帝大には「国体学」講座が設けられるらしい。
都新聞(四月十二日付)によると、政府乃至文部省による「国体の真髓」は凡そ次のようなものに要約される。一、「天皇は現人神であらせられ」「永久に臣民国土の生成発展の本源にまします。」二、「神を祭り給うことと政をみそなわせ給うことはその根本に於て一致する。」三、「天皇と人民は一つの根源より生まれ肇国以来一体となつて[#「なつて」は底本では「なって」]栄えて来たものである。」四、「天皇の御ために身命を捧げることは自己犠牲ではなく、小我を捨てて大いなる御稜威に生き国民としての真生命を発揮する所以である。」五、「我国憲法の根本原則は君民共治でもなく三権分立でも法治主義でもなくして一に天皇の御親政である。」六、議会は「天皇の御親政を、国民をして特殊の方法を以て翼賛せしめ給わんがために設けられたものに外ならない。」七、「西洋経済学説は経済を以て個人の物質的慾望を充足するための活動の連関総和なりとしている、我が国民経済は然らず。物資は啻に国民の生活を保つがために必要なるのみならず、皇威を発揚するがための不可欠なる条件をなす。」八、「人間は現実的存在であると共に永遠なるものに連なる歴史的存在である、又我であると同時に同胞たる存在である。然るに個人主義的な人間解釈は個人たる一面のみを抽象してその国民性と歴史性とを無視する。従つて[#「従つて」は底本では「従って」]全体性、具体性を失い理論は現実より遊離して誤った傾向に趨《はし》る。ここに個人主義自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的過誤がある。」――大体こう云ったものだ。(この引用は全部該新聞紙所載のものに限る。)でここでも判る通り、例の祭政一致声明とこの文教刷新政綱とは全く相一貫したものでただその一貫物が、ここでは準戦時体制からの演繹としてではなく、逆に準戦時体制自身が祭政一致体系からの演繹として現わされている、というに過ぎぬ。これ程よく今日の国民が「知って」いる具体的な内容は又とないではないか。
第二政綱は「政治の刷新行政の改善を図ること」である。その説明には、議院制度選挙制度の改善、行政機構の整備、中央航空行政機関の新設、官吏制度の改正があり、「また一面、」「民衆の利便を図らんとす」とある。之もまた今日、日本の国民はいやという程知っている具体的なもののことを云っているのである。之をしもなお抽象的であり、要は実行如何にある、などと称する政党人がいるとしたら、彼等は大政綱と小政綱(?)との区別を知らぬものと云う他あるまい。特に、中央航空行政機関の新設という項目が大政綱の一部として挙げられているなど、如何に之が具体的であるかのいい例ではないだろうか。橋本欣五郎という大佐が自分で造った日本青年党とかいう政党があるが、その綱領の一つに突如として飛行機論が出て来るのであるが、私は今夫を思い出す。現内閣による「政治」の刷新の軍隊的な具体的面目が躍如としているではないか。ただ抽象的にひびくのは「民衆の利便」というまたの一面[#「またの一面」に傍点]である。抽象的というのは、国民がまだ具体的に夫を知っていないからである。大いに切望はしているがまだ現実には一向打つかったことがないものが、抽象的だ。民衆の利便[#「利便」に傍点]と云っても、決して民衆の便利[#「便利」に傍点]を逆に行くという意味ではなく、軍隊用語では民衆の常識的用語を逆にする伝統があるからに過ぎないのだが、利便を便利に直しても国民にとっては依然として具体的にはならぬようだ。之が具体的でないということはつまり夫が例の準戦時的体制から論理的に手際よく演繹出来ないからである。「なお一面」たる所以だ。
第三の政綱は「挙国一致の外交を具体化すること」であるが、具体化そうというのだから、「挙国一致の外交」そのものは抽象的なものでもいいだろう。実際之は国民がこの間まで充分具体的にはのみ込めなかったものであるが、準戦時体制に不可欠の要素でもあり得る[#「あり得る」に傍点]ことは、民衆は知らぬでもない。尤も民衆は挙国一致外交が必ずしも準戦時体制の一環に限るものではないことをも知っている。北支行動、其他が挙国不一致外交の結果だったというのが本当なら、北支行動の消極化が即ち現在の挙国一致外交であるかも知れぬ、というロジックも成り立つだろう。だが政府はこの政綱をあまり分り切ったことと思ったか、それとも云わない方が苦しい説明を免れる途だと考えたか、説明文をつけていないのである。恐らく、次の政綱が説明抜きである処を見ると、例の準戦時体制の体系のあまりに直接な結論だからなのだろう。
次の政綱というのは、第四の「軍備の充実、国家総動員的準備を進むること」であり、之には何等の説明もついていないが、之は最も具体的に国民が知っていることだ。国民は増税や物価騰貴やその他で、色々な意味に於て之を充分「認識」している。説明の要らぬのは当然だ。この一項だけで八大政綱は代表されるのだからである。ただこの最も重大な項目をそ知らぬ顔で何気なくアッサリと中途に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んであるなどと仲々面白いやり方である。だが祭政一致の体系から、準戦時体制を演繹しようという林内閣のイデオロギー的な順序から行けば、之でいいのである。
第五政綱は「社会政策の徹底を図り国民生活の安定を期すること」とある。期する[#「期する」に傍点]というのは正直な表現で、二階から目薬という感じを仲々よく文学的に表現する。だがその説明によると、実は、割合具体的だ。国民体位の向上、各種社会保険制度の確立、勤労者福利の助長奨励、労働力の維持増進、によって国民生活の安定を期そうというのだ。真中の二つは具体的に判るが、労働力の維持増進というのは何か一寸は判りかねよう。労働力は今日の社会機構では労働者のものではなくて資本家の所有である。少くとも役に立つ労働力(ゴロゴロ遊んでいる労働力でない限り)はそうだ。その維持増進が国民生活の安定になるというのは、少し変である。尤も労働力の維持というのは何か労働者の健康のことかも知れぬ、なる程健康ならば増進という言葉も常識的に判る。だがそうすると日本の労働者は不健康であるために失業しているということになる。社会の矛盾を生理的に解決する次第だが、この点最初の「国民体位の向上」を考え合わせて見ると、納得が行くものがあるだろう。ここで政府の目指す処は軍人たるべき壮丁の体位の下向を防ぐということだ。つまり体格優秀なる軍人が出来れば国民生活は安定を期し得るというわけになる。労働力というのも資本主義的に見た限りの壮丁(労働者)の体位のことだっただろう。労働者は今や、資本主義的壮丁として生活の安定(?)を期せられる。之は労働の軍事化の観念であり、夫が労働組合脱退の奨励ともなれば、やがて国家的報仕労働というシステ無[#「無」に傍点]にも発展出来る素《しろ》物である。――だが、準戦時的体制下に於ける労働である以上こういうものであらざるを得ないことを観念せねばならぬ。この点を予めはっきりさせないで、之を「社会政策」とか何とか呼んでかかるから、判らないことが出て来る。つまり、社会政策という言葉さえ除けば、この政綱項目は、実に具体的に明白になるだろう。従って国民生活の安定という言葉も、除いた方が安定で、その方が国民の非常時的覚悟を促すにも利便があろう。
第六「産業の総合的振興を図り国力の伸張に勉むること。」之はごく具体的である。鉄及び燃料という戦時及び準戦時の活動及び経済に必要な重要産業原料の自給、産業の総合的振興(コンツェルン強化?)、生産力の拡充、中小商工業の助長、電力統制、通信施設の整備、と云ったように説明されているが、之は云うまでもなく、第四の国家総動員政綱の経済版に他ならない。中小商工業に到るまで、広義軍需工業と理解すれば間違はない。そして「国力」というものが何であるかも之で明らかだ。と云うのは、前項のどうも判っきりしない「社会政策」とか「国民生活の安定」とかいうものをこの国力の概念に[#「概念に」は底本では「慨念に」]混入すると国力という概念は[#「概念は」は底本では「慨念は」]大変不安定なものとなり、やがて夫は「国力」そのものを衰弱させることになるからだ。やはり前項の「社会政策」とか「国民生活の安定」とかいう不純な要素は、この八大政綱の祭政一致論的乃至準戦時体制的なシステムからは取り除いた方が、物事がハッキリと具体的になったろう。「国力」からもそういうものは取り除かねばならぬ。
第七「農山漁村の更生を期すること。」しばらく忘れられていた農山漁村が出て来た。之は軍部の有名なパンフレットに出たので一躍有名になったが、それ以来すっかり黙殺されていたもので、大変なつかしいと共に、相も変らぬ語呂の良さを持って行くものである。農地政策([#「(」は底本では「)」]多分農地法案と関係のあるものだろう)、農業保険制度の確立、農村工業の普及、農林水産の生産改善、はまずよいとして、「と共に全村一体の思想を鼓吹し」て、その更生を期すという。農地法式な農地政策の支配者的な特色、農村工業のゴマ化し(かつて現農相は正直に之を告白した)は注意に値するがそれより面白いのは、全村一体の思想を鼓吹するという、その思想自身だ。準戦時体制主義が農山漁村の社会生活に及べば、こういうものになるわけであり、村に求める処を国に求めれば即ち「国家総動員」となる次第だ。それは判るが、それで以て村民の更生を期する一半の依り処とすると、咄しは甚だ抽象的と云わざるを得ない。国家総動員の組織の細胞として、全村一体が必要であるというのは具体的に明らかだ(日本中の村が一体になるのではなく夫々の村の村民が夫々の村で一つ一つにかたまるということならだ)、併し夫が村民の本当の更生になるかどうか、具体的には判らぬではないか。どういう性格の「全村一体」かが問題になって来る。すると、折角具体的であったこの「全村一体」までが抽象的だということとなって来る。やはりここでも村民の「更生」などという表現は使わない方が正確だろう。最後の政綱は「税制の整理、物価対策及び国際収支の改善を期すること」であるが、その説明は八大政綱中、一等長く従って一等詳しい。「国民負担の均衡を図り、国家の存立発展のために必要なる国費の財源を涵養するため、中央地方を通じ、税制改革を行い、物価の投機思惑による国内的騰貴抑制の方途を講じ、根本的に物資の需給関係を調整すると共に、原料資源の確保、貿易の伸展、海運の発展、移民の促進に勉め、以て国際収支の改善を図らんとす」というのだ。大へん善いことばかり並んでいるが、国民は国民負担の均衡のための税制改革では馬場財政の方に賛成し、国家の存立発展のために必要なる国費の財源の「涵養」(?)のための夫では結城財政の方に賛成する。そのどっちかが問題であろう。尤もこの「涵養」ということは、税金を安くする事とも高くする事とも解釈される。政府で涵養になることは国民ではその反対だが、総じてここに限らず、現政府は、国民も政府も、労働者も資本家も、一緒クタにして、物を考えたり云ったりするらしいから、読者は諒とされたい。
国内的物価騰貴が投機思惑によるものであるかのような云い方は、忽ち揚げ足を取られる点だろう。蔵相は場合によっては暴利取締令を出してもいいとさえ云っているから、物価高の主原因の一つが投機思惑にあると、本当に政府が信じ込んでいるように世間は誤解するかも知れない。又政府は折角増大した予算なのに、物価に騰貴されては、実質予算(という言葉があるなら)が却って減るだろうという心配から、こんな経済学的財
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