た。地方検事局の検事三四名が、一カ月に二回程度に、受持ちの警察署を[#「警察署を」は底本では「警察暑を」]巡回し、司法警察官の指導を行うと共に、他方では、司法主任を一年に一回十日間程この受持検事の処へつれて来て、検事局や裁判所の事務を見習わせようというのである。之によって、警察官の取調べに於ける人権蹂躙を防止し、事務をスピード化し、警察を明朗化出来よう、というのである。
検事正はそこで、地方・区・検事局の検事を呼び集めて、次のような内容の訓示を与えた。検事と司法警察官との関係は、従来は命令服従という冷かな形式のみの結合であったが、併し両者の関係はもっと温情あるものにならねばならぬ。兄弟も只ならぬように情意投合すべきだ。この理解と至誠との上に立った和を以て根本精神とし、弟を指導する意味で警官に接しなければならぬ。濫りに欠点を挙げ論駁攻撃を加え無能を懲罰するような監督者としての態度は、断然改めなければならぬ、というのである。
××××にかけては、警察は決して検事局の弟ではないから、元来が兄たりがたく弟たりがたい関係だったのだが、それが愈々温情ある意気投合をすることになる。尤も幸にして検事側の被疑者に対する人権尊重が強調されるのは先に見た通りだから、この意気投合は大いに歓迎すべきものなのだが。
かくて警察は追々明朗になって行くということだ。警視庁では管下の警察署を明朗化すために、追々「刑事部屋」の改造に着手することになった。「刑事室」の名に相応わしいように、椅子・テーブル・宿直用のベッドなどをそなえ、椅子に腰かけて被疑者の取調べに当ろうというのである。畳敷きが床板張りになった処で、大して警察が明朗になりはしないと云う人があるかも知れないが、併しそれはそうではないのだ。封建制度下よりも資本制度下の方が、何と云っても野蛮でなく残忍でないのだから、刑事の取調室が近代化せば、それだけ封建的な残忍さは消えて行くだろう。少くとも之はそのおまじないになるのだ。尤も一般に野蛮にも残忍にも、それ自身の進歩があるとすれば夫は又別な話だが。
併し建築上のおまじないで警察が明朗化するというなら、少くとももう少し迷信的でないおまじないがあるのである。夫を警視庁では余り気づいていないらしい。というのは、建築上効果覿面なのは、留置場の改造と増設となのである。尤も増設の方は、大体あまり景気のいいことではなく、出来るだけ増設などの必要のないようにすべきであり又なるべきだが、少し今日までの警察官の警察技術と心掛けとから云って、増設を必要としないような状態は到底望まれないようだ。三畳敷き程度の処へ、多い時には二十人以上が言葉通りに鮨づめか刺身づめにされるのでは、大抵の留置人は身銭を切っても留置場増設を引き受けたくなるだろう。(そういう事実は調査して見たらば存在しなかった、などと云う勿れ。証人は日本の社会至る処からつれて来て見せる。)馬鹿々々しい牢名主制度などこういう物的条件から起きるのだ。之は少くとも近代化されねばなるまい。
室の数や広さだけではない、昆虫衛生、入浴設備、排泄衛生、採光、其他に関する改造が必要なのである。この改造費は警察医の費用位いでしぼり出せぬとも限らぬ。留置場から出た国民各自の医療費の一部を喜捨してもらっても、予算は立つかも知れない。留置場を近代的に立派にするのでなければ、刑事部屋にどんな快適な設備をしても、日本の警察は決して明朗にはならぬ。私は敢えてこの意味に於ける警察明朗化を提唱するものである。
[#地から1字上げ](一九三五・一〇)
[#改段]
八大政綱の弁護
四月十日林内閣は「八大政綱」なるものを発表した。すでに同内閣が組閣当時発表した有名な政綱があって、夫が祭政一致の宣言から始まっていることは、少なからず日本の民衆を刺※[#「卓+戈」、231−下−4]し、そればかりでなく甚だしく世界の人類を感嘆せしめたものである。処が七十議会を解散した政府は、四月末の総選挙に先立って、改めて政綱を発表するという前振れの下に、国民の注目を惹きつけていたが、遂に夫の蓋が開いた。
その内容は後にするとして、同じ政府が幾月も経たない内に政綱を二度も発表するというのはどういうことだろうか。前の政綱が不充分であったがためなのか、それとも前のは間違っていたから訂正したという意味なのか、それとも今回政府が政策を変えることにしたというのであるか。だがそういう点には殆んど全く、新(?)政綱は触れていない。七大政綱でも九大政綱でもなくて、精密に八つの政綱であり、之が必要にして充分な数であるらしく思うのが正しいのかも知れないが、そうだとすると増々、前の数政綱の改廃の経緯を説明して呉れなくては困る。この調子だと今後又更に、例えば三大政綱や五大政綱が発表されないとも限らない。そうなるとこの八大政綱なるものの八の字にからまる権威はまことに怪しいものとならねばならぬ。内容を別にしても、その形態分枝自身が信用ならぬものとなろう。それとも八つということに何か神話的な意味でもあるのだろうか。大八洲《おおやしま》とか「八マタノオロチ」とかとでも関係があるのだろうか。
察する処、七十議会の解散が国民から意外に評判が悪くて、新党運動さえも思わしくないのを見て相当狼狽した林内閣が、総選挙に臨む、ジェスチュアの一つとして、この八大政綱を声明したものと思われる。そう考えて見れば色々理解出来る点も出て来る。初めの第一回の政綱の方は祭政一致などを先頭にした一種爆弾的な声明であって、国民は恐れかしこむ他ないものであった。凡そこれ程国民の世俗的な生活利害を白眼視した政綱の表現はあり得ないと思われる程だった。国民生活の安定という、既成政党さえ少くとも御題目としては唱えることを忘れない民衆へのさし伸べられる手は、どこにも見えなかった。それが今回の方の声明ではどうだろう。社会政策の徹底とか国民生活の安定とか、農山漁村の更生とか、物価対策とかいう、甚だ神祇性に乏しい政策が掲げられている。之は祭政一致というような宗教的儀式とは凡そ縁のないような世界の自由主義国家や唯物論国家やファッショ国家の、常套語でしかない。こうした俗悪な、民衆的な、非神祇的な、内容が盛られているのである。
慥かに、民衆は祭政一致論議の霊的儀式には感動しなくても、世俗生活の物的利害には動くものだと、政府は初めて見て取ったらしい。之は現内閣の進歩でないとすれば堕落であるという他ないかも知れぬ。ことに政党や議会を懲戒する程のあらたかな[#「あらたかな」に傍点]資質を持っている政府が、総選挙如きものに牽制されて、民衆の現実利害などに現《うつつ》を抜かすとすれば、それはみずからその神祇的な権威を傷けるものと云わざるを得ないだろう。あらたかな政府と現を抜かした政府と、一体どっちが本当なのであるか、それが判れば国民の対政府所信もおのずから決って来よう。つまり前回発表の政綱と今回発表の政綱と、どちらが本当なのか、ということに帰するが、所がその二つのものの関係が、一見、一向に声明されていないというわけだ。
仮に、神聖なるべき国家の祭祀的な政府が世俗の物的な交錯に、不覚にも現を抜かしたものが、今回の修正された改正政綱(?)だとすると、それに何等の特色がなく新味がないと云われるのも、初めから当然だろう。一体現内閣(寧ろ一般に最近の内閣がそうだが)が、何か新味か特色を存っている点は、社会民衆の物的生活利害に就いてではなくて、正にそうした民衆の社会的物質生活を超絶した高みからすることに就いてであった。それが民衆生活の世俗問題にまで天下って来たとすれば、羽衣を失った天女のように、まことに凡庸で取るに足りないものになることは当然だろう。たしかに新八大政綱は、可もなく不可もない(?)通り一遍のものと云わざるを得ないというのが、外見上の事実だ。
だが、政府がどういう政綱を発表するかというような外見だけで、この政府の実力を推定してはならぬ。この外見からすれば恐らく気が向けば何べんでも色々な政綱を声明するようなダラシのない政府だろう。処がこういう隙だらけの発表やジェスチュアを通じて現われる政府の本質は、決してそんなダラシのないものではない。仮に林現内閣はダラシがないとしても、之に続いてバトンを受け取って走るだろう今後の諸内閣――国防六カ年計画の実施は今後の内閣の性質を客観的にそう規定するものだ――の本質には、国民の眼から見て何か淋漓たるものがあるだろうと思われる。だから案外、前政綱と新八大政綱との間には、一貫した或るものが客観的に存在するのである。この一貫した或るもの、之は実は正確に云うと例の祭政一致のことでもなければ、まして国民生活の安定其他の類でもない。夫が何であるかは、林首相などに聞くより陸軍大臣に聞くのが何より早途である――
杉山陸相は八大政綱の発表に際して新聞記者に語っている、「決定した新政策は先に自分が師団長会議、東京在郷将官懇談会で述べた国軍の総合的能力の飛躍的向上発展を期するという趣旨と全く一致せるもので、今日ではこの考えは軍民一致、全国民の考えと一致するものと思う。いい換えれば狭義広義両方面の国防的見地から……」云々(東京日々四月十一日付)。陸相の体系[#「体系」に傍点]によると、八大政綱の一切が、思想問題であろうと国民保健問題であろうと、産業統制であろうと、その他一切の問題が、この広義国防(とは即ち狭義国防のことであることを注意せよ)の見地から、系統的に演繹出来るというのである。祭政一致論議も国民生活安定も加味するの論も、この体系からの単なる個々の演繹に過ぎなかったわけだ。この体系を、今日世間では準戦時的体制[#「準戦時的体制」に傍点]と呼んでいる。林首相的表現に於ける八大政綱を如何につつき廻しても、こんな見事な体系を見つけ出すことは骨であるかも知れないが、陸相的表現を借りれば、一言にして明白になる体系だ。国民は、理論的首尾一貫と理論的指導性に於て、どっちの大臣の頭が優れているのか、眼が高いか、いやどっちの大臣の椅子の方が高いかを知るべきだ。
展望台がどこにあるかが判った以上、之に登って下々の人民共の世界を観望すればよいわけで、そこに展開する蒼生の風のまにまによろめく姿は、八大政綱を以て表現しようが、九大政綱を以て表現しようが、新政綱であろうが、旧政綱であろうが、変りはない。つまりそんなことはのりと[#「のりと」に傍点]かお題目[#「お題目」に傍点]であって、どうでもいいことだ。この政綱の類を神宣やお題目だと云って政府そのものを非難する者は、心ない次第で神宣でお題目である程度のことこそが、偶々正に必要なことだったに過ぎないのである。神話だって題目だって何かの利き目があればこそ世の中に存在するのである。
さて以上のような点を心得ておいて、八大政綱に一通り当って見ると、之は決してそんなに凡クラな声明ではない、特色があり過ぎる程特色がある。何等の新味がないなどと云うのは政党者流の浅見に過ぎない。抽象的であって何等の具体性もないというのも嘘で、世間がいやという程知っている具体的な内容を、単に抽象的な多少拙劣な文章で表現したに過ぎない。声明そのものというような外面的なものでこの政府の政策政綱をあげつらうことは、出来ない。ただ声明の内に含まれているらしい矛盾だけは少し困るので、声明が矛盾している時は心事にも何か矛盾がある時だが、併し自分の矛盾を気づかない体系も大いに存在し得るものなのだから、例の準戦時的体制という体系の首尾一貫には少しもさしさわりはないわけだ。準戦時的体制という首尾一貫した社会組織そのものの社会的な無理が、偶々まわり廻って、政綱のそこここの矛盾となって現われはしないかどうかは、別としてだ。第一政綱は「文教を刷新すること」である。説明として教学刷新、義務教育延長、学制改革、文教審議機関設置、国体観念の徹底、国民精神の作興、というのがついている。決して抽象的ではなく相当具体的なのだが、国体観念や国民精神というものが
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