乃至教授会は研究機関ではあり得ない。そうすると之は一種の同職組合、学術業のギルド組織に似たものだろう。このギルドの気質《かたぎ》と仁義にかなわないような学問や人物は、「学術」でもなければ「学者」でもない。処がこの学術業ギルドは、東大は東大、京大は京大、慶応は慶応と夫々気質と仁義とを異にしている。同じ商大でも東京商科大学と神戸商業大学とは仁義は反対だ。処がこの同じ東京商科大学ギルドの内でも、仁義に流派があって、或る一方の仁義から見て品行方正な学問と人物だけが「学術」的となる資格を有っているというようなわけだ。
さて事実、東京商大にどのような仁義があるか、私はよくは知らない。なぜ国立というような無人の荒野にわざわざ持って行って、教会かチャペルのような建築の商人の大学を造ったのかさえも、私には判らない。併し凡そ官立大学(帝大を含めて)や之に準じる公私立大学一般の、学術の優等振りと品行の方正振りとを、即ち大学の科学振りを、吾々は大体に於て知らないのではない。それから又杉村氏の科学上の研究を一々専門的に知っているのではないが、氏の大体の科学的な水準に就いては、あまり見当違いでない判断が出来るだけのチャンスを吾々は持っている。そこで大学のこの科学水準と、杉村氏のこの科学水準とをつき合わせて見ると、どう間違っても杉村氏は立派に博士に及第しなければならぬ、というような気がするのである。
私は日本で出版された所謂経済哲学に就いての研究を、三つ四つは見ている。故左右田博士の論文集や故大西猪之介氏の『囚われたる経済学』、学位論文としては京都帝大の石川興二氏の「精神科学的経済学の基礎問題」と法政大学の高木友三郎氏の「生の経済哲学」など。之に比較して見るならば、まだ見ないのだが多分今度の杉村「博士」の論文は決して遜色あるものではなかろうと僣越ながら推測されるのである。
杉村氏は人の知るように左右田喜一郎氏の経済哲学を継承発展させた所の学者である。処が左右田氏は銀行家としては失敗したが、ブルジョアジーの代弁的哲学者としては、とに角押しも押されもしない代表者であった。今日のブルジョア社会では、却ってああいう形式主義的な合理主義は流行らないが、それは云わば封建的要素と結合したブルジョア社会のファッショ化の結果であって、形式主義的ナショナリズムはブルジョア科学用のイデオロギーの一要素として、今日でも立派に国家的、「学術的」、大学的な通用性を持っている。この極端な代表物が杉村氏の哲学であり、その粒々たる苦心の結晶が、多分今度の論文だろうと思う。
経済学と哲学とに両股かけていようと、経済学でもなく哲学でもないにしても、それから又、こうした苦心が結局は玩具製造人の苦心に類するもので仮にあったとしても、今日の大学がこの「学術的」労作を握りつぶし得る義理ではあるまい。――杉村氏や少壮助教授や学生達が「学術刷新」と「学園振粛」とのために起とうとしているのは、正にこの意味なのである。
ブルジョア大学が、アカデミックに又恐らくギルド的に申し分のないこのブルジョア科学的労作を「学術的」なものと認めないとすると、一体今後大学は、どうする心算なのだろう。之はブルジョア大学がみずから墓穴を掘るものでなければなるまい。問題は所謂、「大学」(独り東京商大に限らぬ)自身の問題であって、杉村助教授の問題ではない。杉村助教授その人の問題としてなら、いくらでも途は開かれているので、氏がブルジョア・アカデミーの「学術」的なエクスタシーから、之を機会にして、正気に帰るということも、一つの手であるかも知れない。
二、官吏道
官吏の身分保障令が制定されてから、既成の上層官吏の異動が[#「異動が」は底本では「異動か」]少なくなったのはいいが、それだけ高等官候補者の出世が困難になり、内にはスッカリ腐ったり上官の失脚を喜んだり、政党内閣の再来を希望したりするものさえ少くないという。官吏の総元締である大臣にしてからが、誰かが死んだりすると、その後釜をねらう者が多くて、その結果岡田首相は一時でも逓信大臣を兼摂しなければならなくなる程だ。上官の失脚を喜ぶ下ッ葉の若い官吏があるのも無理はない。
内務省の観察によると、高級官吏の若い候補者達のこの憂うべき傾向は、結局今の若い者に腹がないからで、腹を造らせるには、禅寺あたりで修養させるに限るというのである。そこで内務省では全国府県に配属してある見習属約百五十名を三班程に分けて、二週間位いずつ鶴見の総持寺にこもらせ、精神修養と時代の「認識」とを与えることにするそうだ。講師には云うまでもなく、僧侶と軍人は欠かすことが出来ない。教育家と財政家即ちブルジョアの技術的番頭も欠かせない。行く行くは官吏道場というものも造り、腹の出来た若僧役人達が、ワッハッハと豪傑笑いをすることになるじゃろう。
だが、酒一つさえあまり飲むことを知らぬこの頃の若い者に、容易に腹などが出来るかどうか、可なり危っかしいのである。併し実は腹なんか出来なくても構わないので、いや下手に腹などが出来られては危険でしようがない。精々、出世しなくても不平を云わずにおとなしく働けるだけの腹が出来れば、それ以上の必要はないのである。
之は官吏の話ではなく、従って本当のお役人とは云えないかも知れないが、この頃東京市の少壮中堅吏員が「市政研究会」という団体を造っている。市政浄化を目ざして吏道の確立を計るのだそうだ。市政を害毒するものを吏員自身の手によって芟《さん》除しようというのである。既に会員は千名を越えているし、やがて機関紙も発行するし、更に運動を全国の都市の吏員にまで拡げようという。――こうして中堅以下の吏員の横の連絡が出来上れば、心配になるのは〇〇〇〇市区議員や上級吏員や市長や助役ばかりではない。吏道の統制そのものが危殆に瀕するかも知れないのだ。すでに××××に於てこの現象は極めて著しい。文官官吏に於ても、外務省や司法省にこの悩みがなくもないそうだ。だから、内務省だって決して安心してはいられない。知事の卵の腹を造ることは必要だ。併しおとなしく不平を云わずに働く腹を造ることだけが必要なのだ。
処が民間に能率連合会なるものがある。この能率主義者の一団が、お役人の暑中の半ドンは、晩まで働いている民間の労働者に較べて、甚だ社会的に不当だという考えから、官公庁の夏季執務時間を民間の銀行、会社並みに改めることの可否に就いて、各方面に賛否の問い合わせを発したものである。同会の理事は云っている、「私達のは勿論能率向上[#「能率向上」に傍点]という見地からですが……非常時局の折柄指導的立場にあるべき彼等の夏季半休は時代に逆行するものではないでしょうか。」
問い合わせの先は、特に官公庁を除外したのであるが、約四百通の問い合わせに対して最近までの回答、廃止すべしが二百六十通、従来通りでよしとするもの僅か五十通、という成績である。(尤もこの賛否には夫々の特別な理由が伏在しているのを忘れてはならないが。)そこで愈々官吏側でもこの問題を事務管理研究委員会に付議しようということになって来た。――例の知事の卵とかは、涼しい禅寺でユックリと二週間も修養させられるかと云うと、忽ち半休取り消しという眼に合おうというわけだ。非常時局だから大いに発憤して気勢を揚げようとすると、非常時局だから大人しく朝から晩まで働けと云われる。
なる程官吏乃至一般にお役人位い社会的に優遇されているものはない。夏季に半休があるなどということは、その優遇の抑々末端である。身分保障、恩給、退職手当、年金、官舎、昇給、其他から云って、決して民間のサラリーマンの比ではない。それに官吏の背景には国家の権威が射している。身は××にぞくしているのだ?――併しそういうなら、民間のサラリーマンを一般の所謂労働者に較べて見たら、サラリーマンは何と社会的に優遇されているではないか。処が又この就職労働者を失業労働者に較べて見たら彼等は何と贅沢[#「贅沢」に傍点]な社会条件におかれている事だろう。否、本工と臨時工との差だって実質的には大したものなのだ。失業者だってカード登録者と純然たるルンペンに[#「ルンペンに」に傍点]較べたら、カード氏等は如何に贅沢な社会的厚遇を享受していることだろうか。話は段々細かくなり心細くなるが、社会的優遇の差は、主観の隣接した視界に於ては、その割に小さくはならないのである。
社会人は誰しも、この社会的優遇(?)の差を不平等で不埒だと考える。この差を除くことが今日の社会人の常識である。処がこの差の除き方には、数学的に云って二つの方法があるので、一つはどれも之も云わば一様に社会的に優遇することによるものであり、他の一つは優遇されたものの「特権」をわざわざすべて廃止して了って、どれも之も最低の社会的優遇(?)に還元しようというのである。処で後の方のやり方を、能率増進とか能率向上とかいうのである。
能率増進というと如何にも景気が良く、すぐ様輸出の増大とか産業の発達とかを連想するかも知れないが、何でも増進さえすればいいというわけではない。例えば血圧などは増進しては困るものの一つだ。それに能率と云うと如何にも頼もしいのだが、実は能率には二種あって、機械とか工場設備とかいう物質的技術的能率と、労働者の働かせ方とかその労働力の最後的緊張能力とかという人的能率とは別だ。一体エフィシェンシーというのは機械に就いての工学上の概念だったのを、何時の間にか社会の生産機構に持ち込んで来たので、遂に人間の能率(即ち使いべりのしなさ加減)のことにもなって了った。能率という観念の食わせ物である所以は之だ。
日本の官吏も今や遂にこの工学的な能率増進の対策にされて了った。
国家の権威を背景としていても、いくら威張っても、官吏は資本制社会機構での一勤労者で、被使用人であることを免れないということになった。こんな判り切ったことを併し、日本の官吏自身も日本の人民も、実は充分突きつめた形では、理解し得ない理由があるのである。名誉ある官吏道[#「官吏道」に傍点]なるものがそこにあるからである。
三、警察明朗化
八月の上旬に溯るが、小原法相は検事の人権蹂躙問題が議会に於てまで問題にされたのを見て、検事事務調査会なるものに命じて、検察事務改善に関する答申をなさしめた。その答申によると、第一「職務を執るに当りては常に人権の重んずべきことを念《おも》い、その非違を匡正するは安寧秩序を維持するため已むを得ざるに出ずるものなることを忘るべからざること」、「被疑者其他関係人を取調べるに当りては、其言語動作を慎しみ、苟も取調べを受くる者をして、その名誉信用を毀損せられ侮蔑を受くるの感を抱かしむるが如きことなきよう常に慎しむこと」、又「未決拘留期間の短縮に努むること」、其他というのである。
帝人事件に関する人権蹂躙事件は、主に検事局内で起きたことだったから、之を直接の動機にしているこの調査会の答申は、云うまでもなく直接には検事の取調べ方に就いての注意だろう。之によると、之まですでに人権蹂躙に近い事件が××側になくはなかったということを自白しているようなもので、国民は之を以て、××が人権蹂躙の事実を或る程度まで暗に承認したものと見做していいのかも知れない。
それはとに角として、この答申は勿論単に検事取調べの場合に就いてだけ云っているのではなく、司法警察官の取調べ態度に就いても云っているのである。未決拘留期間の短縮云々は、だから警察署の場合では、検束・検束の反覆・拘留及びその反覆の警察官による司法乃至行政処分の期間短縮を含むものと見ていいだろう。拘留か検束か知らないが、左翼思想犯の留置場乃至保護室に於ける留置期間は半年位いは普通になっている今は、この点は大切なのだ。検事局がこの新しい方針? を取る以上、だから警察も亦この方針を取るべきであるのは言をまたない。
東京地方検事局の猪俣検事正は、今度検事と司法警察官との連絡を密接にするために、検事の警察巡回制度を実施することにし
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