のである。満州帝国の辺境を侵すものは純然たる支那兵とは限らない。ソヴィエト治下の外蒙古軍まで、越境の沙汰に屡々及ぶことは周知の通りなのである。ハルハ地方の外蒙兵越境事件に就いて満州帝国が外蒙古と交渉中の処を、又々ハイラステンゴールに於ける同様な事件が惹き起こされた。外蒙代表の散※[#「にんべん+布」、第3水準1−14−14]氏はソヴィエト政府と諜《しめ》し合わせて、故意に事件の解決をおくらしている、という満州国側の発表である。満州帝国は日本帝国ではないから、ひとの国のことはどうでもいいようだが、併しこの頃ソヴィエト・ロシアは駐支大使をして北支事情の調査を行わせ、日本の行動を探り始めたということである。チャハルに於ける日本軍の進出を検べるらしいが、特にチャハルは大分外蒙古に近いのだろう。
 併し日本軍部即ち関東軍側に云わせれば、武装した赤軍が、ソ満国境を越えて満州国領土に侵入することは、枚挙に遑のない程頻繁だというのである。第一、林陸相が内閣審議会で報告する処によると、ソ満国境には二十万の赤軍を配備して戦略的展開を行っているというのである。二十万人もいれば十人や二十人時々国境からハミ出すこともありそうなことで、この大軍に対比しては、関東軍はわずかに行軍状態とも云うべき有様だと陸相が説明しているその少数の関東軍さえが、ソヴィエト政府に云わせると矢張時々××から×××すそうだ。
 駐日ソヴィエト・ロシア大使ユレニエフ氏は六月二十六日広田外相を外務省に訪問して去る六月三日ソ満国境楊森子付近に於けるソ兵越境問題は、実は日本兵が××したことに原因するものだと抗議を申し出たのである。外相は、事件が全く満州国領土内で発生したのだからソ兵側の越境によることは明らかだと反駁し、併し今例の日本式の現地解決主義によってハルピンに於て交渉中だから、その話しはまあ後にしましょうと云い、それよりも日ソ満三国国境委員会設置案を具体化する方が外務省として手頃な交渉ではないかと云い、否それよりもソヴィエトの国境軍二十万は多すぎて危険だから、半分か三分の一に減らしてはどうか、という具合にユレニエフ氏へ持ちかけた。現地解決ということを知らないユレニエフ大使は、ウッカリ問題を霞カ関などに持ち込んで来たので、逆にとんだ負担を負わされて引き下らざるを得なくなった。
 そこでソヴィエト政府は七月一日同大使に命じて、今度はソヴィエト側から、日満軍の国境××に対する厳重な抗議を日本政府に対して申し込ませることにした。最近日満軍隊並びに艦船がソヴィエト領土及び領内水路を×すこと八件もの多きに及んでいるが、之は日ソ国交上「重大な結果」を孕むものと信じる。日満軍隊艦船が領土水路を×した場合、ソヴィエト政府は日本政府の責任を問うこと、ソ満国境に於ける日満軍当局の行動は危険且つ許すべからざるもので、日本政府はよろしく該軍の挑戦的行動を阻止すべく断乎たる処置を宣すべきこと、と云った内容である。つまり広田外相はスッカリ美事に復讐されたというわけなのである。
 外務省当局は、云うまでもなくこの「ロシヤ側の宣伝的態度」に不満で、第一に事実を虚構するものであり、第二に広田――ユレニエフ――国境問題委員会案を無視したものだと言っている。ソヴィエト側が日本側の虚をついたように見えるこの抗議は、外国の外交関係者の見る所では、国境撤兵交渉に対するソヴィエト側の牽制策ではないかと観察されている。――果して、モスコーからの情報によれば、国境委員会設定の件に就き、ソヴィエト政府に於て応諾の色があると報じられている。之によって撤兵問題が或る程度まで具体化することになれば、北満鉄道問題解決以来の「日ソ親善」の実が挙がることになるだろう。
 処が之は単に外務省式な見透しであって、関東軍が現地的に幅を利かせている満州国自身にとっては、すぐ様そうは行かぬらしいのだ。同国の外交部は、話を逆に持って行ってソヴィエト軍が撤退しない限り国境委員会設置には同じ難いという意味を言明している。と角広田円滑外交に×××××××るのは、北鉄買収問題と云い、支那公使昇格問題と云い、満州国の興味であるようだが、之は何かに魅入られている結果だと思えば解釈がつく――処が又広田対ソ外交にとって不利なことは、日ソ漁業関係でソヴィエト側がいつも条約無視をやっているということなのである。最近では、カムチャツカ東海岸の某地方にソヴィエト政府国営の漁区が三つ設定されたという報道だが、漁区の設定は日ソ両国の会議によることになっていて、このソヴィエトの三漁区の設定は明らかに条約違反になる、という農林省の解釈[#「解釈」に傍点]なのである。同省は外務省と協議の上、ソヴィエト・ロシアに対して厳重に反省を求める意向だそうだ。だが漁業問題の解釈のためにだってすぐ日本の駆逐艦がやって来るのを見ても、不敬事件と同じで、矢張直接軍部に関係しなければ話しはおさまらないのだ。
 さて以上見て来たようなトラブルスは、是が非でも膨脹しなければならぬ日本としては、或いはその膨脹を是が非でも合理化させねばならぬ日本としては、当然我慢しなければならぬ処のものである。だがただのトラブルスならば我慢するのは大したことではなく、単に心懸けの問題に帰着するかも知れないが、そのトラブルスが同時に非常に金のかかる(十二三億円もかかる)困難だとすると、夫は容易ならぬ困難だと云わねばなるまい。日本はその膨脹のために、或いはその膨脹の合理化のために、今やこの到底普通の民族では忍び得ないような天才的な困難を忍んでいるのである。ソヴィエト・ロシアは割合明朗な気持ちで、洒脱に戦機を逸脱して肩をすかしてやって行けるらしいが、中国の国民になるともはや決してそのような楽な気持ちではない、身をかわすにさえも膏汗がにじみ出るのである。処が日本の国民も亦、同様にこの到底忍ぶべからざる困難を耐え忍んでいるのである。して見ればつまり、日支国民はお互い様ということになるのである。併しそれにも拘らず日本帝国そのものは膨脹して行くのであり、中華民国そのものは萎縮して行くのである。
 尤もあまりの困難に耐えかねて、時々不吉なうめき声を出す不心得な日本人がないではない。併しそんな女々しいうめき声は、甚だ豪勢な怒号で一たまりもなく吹き消されて了う。東京の某大新聞記者町田梓楼氏は、市内の数カ所と信州の教育会とで「非常時日本の姿」について講演したが、在郷軍人会は之を反軍思想で赤化宣伝だと云って大声で怒号し始めた。該新聞社に町田罷免を迫ったり紙上謝罪を要求したり、果ては該新聞紙不買同盟を決議したりしている在郷軍人分会やファッショ政党もあるらしい。町田氏は在郷軍人会側の誤解を解くべく、心境を吐露した文章によって、日本の対外的活動に対して何故諸外国から文句をつけられるのか、ということの冷静な科学的な認識こそは、困難を出来るだけ少なくして国運の発展を円滑ならしめるものだ、と説いている。
 だがそういう弁解はもう役に立たない世の中だ。或いはまだ役に立たない世の中だ。何しろ日本は今、膨脹することだけが商売なのだから。農民問題、失業問題、その他何々、それはまあ後廻わしにしようではないか。諸君××××××よ!(一九三五・七)
[#地から1字上げ](一九三五・八)
[#改段]


 大学・官吏・警察

   一、杉村助教授の場合

 東京商大の哲学者、杉村広蔵助教授は、学位請求論文(商学博士の)「経学哲学の基本問題」を同大学へ提出した。同助教授は助教授とは云っても年配や有名さや何かから云って方々にあるかけ出し助教授(つまり昇格した助手)とは異って、云わば堂々たるものなのだし、それに学内に於ける評判と人気も大いに良い方なので、多分誰でもこの論文は教授会を通過するものと思って怪まなかっただろう。当人だって、そう思えばこそ提出したので、帝展や院展、二科の出品などでも多少はそうかも知れないが、大体を瀬踏みをしてからでないと、学位論文はウッカリ出せないものである。
 尤も杉村氏のような場合、生え抜きの商大人なのだから、特別の瀬踏みの必要もないように思われもするのだが、併し、仲々そうは行かないらしい。元来ブルジョア学者の学問が公平無私で「客観的」であることを以て、即ち不偏不党の中立主義であることを以て、「科学的」だと称されているのは、世間周知の通りであるが、併しその結果、それだけにブルジョア学者そのものの人柄に就いて云えば、主観的で分派主義的で、即ち非科学的な人物が少くない。公平無私で客観的で科学的な「学術論文」を、この私党的で主観的で超科学的な惧れのある学者から出来ている教授会の渦中に引っぱり出すのだから、「学術」なるものも決して安心してはいられないのである。
 論文の審査員は経済畑からの高垣寅次郎教授と哲学畑からの山内得立教授であり、この二人が之を「学術的」に学位に値する(即ち大学院卒業程度乃至夫以上の学力あることの証拠)と認めて、教授会にかけた処、不思議なことに、いや果せる哉、出席教授二十一名の内、賛成十四票、賛成でもなく不賛成でもなくそうかと云って棄権でもない処の白票が七つ、という結果になって了った。規定の四分の三の賛成者を得ることが出来なかったので、結局この論文は教授会を通過しなかったのである。
 そこで驚き且つ怒った杉村助教授は、一方辞表を提出すると共に、論文を岩波書店から出版するに際して、その序文にこの不通過の顛末を書くことにしたそうである。まだその序文を私は見ないから、どういう点に氏の忿懣が集中されているか判らないのだが、助教授団や先輩団が、この問題をキッカケにして教授団攻撃や佐野善作学長の辞職勧告に進んで行く処を見ると、恐らく学閥とか学内セクト対立とかが、氏の私かに触れたい要点ではないかと想像される。
 形式的な問題として見れば、審査員が認めても教授会で認めないということは、当然あり得て然るべきことだ。博士は単に学術優等だけではいけないので、思想的にも道徳的にも社交的にも品行方正でなくてはいけない。処が二人位いの審査員は他人のこの品行が方正かどうかを、審査することは事実上出来ない、之を審査するのがまず第一に、他人の噂を色々と知っている(釣や囲碁や談笑酒席?の間に)教授団に限る。その次は文部省のお役人が之を審査する。尤も文芸懇話会の松本学氏のような人を学長か総長にすれば、この学長か総長がよろしく工作を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]むかも知れないが。
 だから審査員が認めたのを教授会で認めないということは、元来少しも変なことではないのだが、併し他方から考えて見ると、審査員に選ばれた教授は云うまでもなく、教授達の内で一等その論文のことの判る人間なので他の教授は大抵の場合、他人の論文の詳しいことがそう一々判るものではない。そこで本当を云うと、論文提出者とその審査員との人物が気に入る入らないは別にして、論文そのものに就いて云うなら、審査員の学術的資格を信用して了って全員賛成するか、それとも之を信用する気にならなければ、賛成でも不賛成でもない白票を投ずるかの他はないのである。処がよく考えて見ると之も亦変なもので、教授会の権威から云って、あの論文の良し悪しは判りません、というような態度は許せないことだろう。では欠席するかというと教授会を勝手に休むことは官吏の服務上之亦許されないことだ。
 博士というものが学術優等で且つその上に品行まで方正でなければならぬと仮定する以上、右のような八方ふさがりに陥るのである。処がこの二つの資格は云うまでもなく日本では絶対に必要なのである。第一日本に於ては学術そのものが国家に(社会にではない)枢要なものでないといけないらしいが、その国家で建てた、又は之に準じている大学の学問と之を奉じる人物とは、云うまでもなく国家的見地に立って品行方正であることが必要だ。第二に、併し大学の教授団は、共同研究をする機関などではない、大学教授の研究は各自独立に排他的にさえやることになっているから、教授団
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