出来るものと考えるのが間違いの元で、満州がなぜ独立出来たかと云えば、それは満州人種の「三千万民衆」の切々たる懇望に基いたからこそであった。処が北支那の民衆の切々たる懇望は何かというに、却って不埓にも排日排満の形を取って表面に現われたものだったのである。之では仮に独立国が出来ても、満州国対立のための独立国にはなっても、満州の友邦としての独立国になる筈はない。何のために日本がそんな独立国のために×××××××××。
 日本軍部が目的とする処は、そんな独立運動などではなくて、単に全く日、満、支三国間の和平そのものにしか過ぎず、又その一部分としての北支一帯の和平に他ならぬ。つまり北支一帯に於て、一種の緩衝地区[#「緩衝地区」に傍点]とも云うべき安寧秩序の確保された地域が実現されることだけで満足するものに他ならない。満州国のこの方面の外廓には停戦地域[#「停戦地域」に傍点]なるものが設けられているが、その外廓に今度緩衝地区を設けようというわけである。そして夫が成功したのだ。この緩衝地区の更にその外廓が今度は何という名前のものになるかは、まだ判っていないが。
 新聞によると、六月十一日、即ち河北省問題が一段落ついて直後、軍部の天津会議なるものが催され、そこで「将来の建設的方策」については何れ後から具体的方策を進めようということに決ったそうだが、この建設的方策ということが併し、どういうことだかまだハッキリとは判らない。最近では×××××と相談して北支進出を計画しているそうだから、案外そういうことが「建設」的方策のことだったかも知れない。
 だがいずれにしても北支問題は一段落ついたので、之で安心だと思っていた処、翌日の六月十二日の北平からの通信によると、今度は問題は一転して察哈爾(チャハル)省に向ったというのである。河北省の悪玉であった于学忠が退いて安堵したばかりの処を、この于学忠よりももっと悪質な悪玉はチャハル省の宋哲元だということが判ったから、正直な国民はガッカリすると同時に、向ッ腹が立って、八ツ当りがしたくなるのであった。が冷静に考えて見るとこう上手に幕合いの長さを計って現われるような舞台は、よほど筋書きの通った劇に違いないということに気が付く。それに気付いた人は、そこで却って段々興味を覚え始めたかも知れない。どうせ戦争になる心配なしに幕は目出たし目出たしで下りるだろうから。
 さてそこで関東軍がこの宋哲元軍を徹底的に糺弾すべく対策を協議している最中、恰も頃を見計らって、宋哲元軍は、関東軍と国民中央政府とからの警告にも拘らず、満州官吏に対して突如発砲を敢えてしたものである。が、併しこの偶然事は、残念ながらこの××××をあまり面白く展開させるには到らなかった。関東軍の土肥原少将と中国側の秦徳純氏との間の誠意ある会見によって、一、宋哲元氏はチャハル省政府主席と第二十九軍長の職を退き、二、今後省内に於ける排日行為を再発させぬ保証を与え、三、熱河省境一帯地区の支那軍隊を他へ移動して同地域内には今後支那軍を駐兵させないこと等々の覚書を交換することになったからである。つまりチャハル省も亦、河北省と同様に緩衝地帯[#「緩衝地帯」に傍点]だということになったわけである。して見るとこの幕は第一幕のただの延長か繰り返しでしかなかったわけで、興味を有って期待していた不心得な人間達はやや失望したかも知れないが併しそれだけに、早く幕になったのは助かったというものである。――尤もその後、七月に這入ってからも、宋哲元軍は時々満州国へ不法越境しては中国側を恐縮させているのであるが。
 チャハル問題が一段落ついたのは六月二十五日だった。処が一週間の休憩をおいて、七月二日になると、舞台は今度は上海に移って『新生』という中国の雑誌の不敬事件なるものが発生したのである。この雑誌に不敬な文章が載って発表されたというのであるが、××××××××××××××××××××××××、その文章の内容に就いては知り得ないし、又吾々庶民は知るべきでもないだろう。だがいずれにしても、中国が日本ブルジョアジーの商品である日貨を排撃したり、日本にとっては一種の外国でもなくはない満州の国境を侵したりするのは、日本人としてまだしも我慢するとして、遂には×××××××××不敬事件をまでも惹き起こすに到っては、もはや赦すべからざるものがあるのである。もし日本のブルジョアジーや日本の軍部の対支対策がまだ充分に×××××××××××ために、××××××××奉ったとすれば、恐懼の至りでなくてはならぬ。
 軍部はだから、遠く満州事変や上海事変、又近く例の河北省問題やチャハル問題の、一貫した劇の筋書きの上から云っても、当然この問題の正面に立って働くだろう、と単純な吾々は考えたのである。処が意外にも外見上は必ずしもそうではないのだ。七月二日有吉大使は、外務省の回訓に基いて、唐外交次長と会見し、我が要求を明示して正式の抗議を通告した。その内容は先にも述べたような恐れ多い理由によって、必ずしも明らかではないが、併し問題は、この事件が北支問題とは多少異った特色を有っていることが明らかだという処に存する。
 広田外相は五日の閣議に於て云っている、「今回の事件は先の北支停戦協定違反事件と異り、純然たる外交交渉案件である故、専ら外交当局をして折衝せしめている。従ってこの交渉に軍部が干与しているものの如く視るものがあれば、それは大きな誤解である」云々。林陸相自身も又之に相槌を打って「今度の問題は外相の云わるる通り、純然たる外交問題である故、軍部が直接積極の行動に出ずべきものではない。よって東京並びに出先の軍憲に対しても、この旨を厳に訓達しておいた、従って出先軍憲の意見が新聞等に表われていても、これは聞かれる故個人的意見を陳べたもので、軍部としての意見を代表したものではない」と云って他の閣僚の諒解を求めている。――なる程云われて見れば尤もで、今度の事件に限って珍しく外務省の係りであるらしい。それを他の閣僚までが軍部の仕事と思い違いしていたとすれば、対外折衝は軍部のやることだというような考えが閣僚自身の習慣になっている程に、外務省側の独立行動は珍しかったからに過ぎぬだろう。
 併し之を軍部の仕事と思ったのは日本の迂濶な閣僚達だけではない。肝心な唐次長が、軍部の意向を聴取するために、南京へ帰京する予定を延ばして在上海の日本武官を訪問して歩いている。特に磯谷少将は蒋介石氏直参と称される張、陳、両氏との三時間に亘る会見に於て、支那の不心得を懇々と説いたと新聞は報道している。無論こう云っただけでは軍部がこの交渉に干与しているとも云えるしいないとも云えるわけだが、折衝の名義人は外務省でも、外務省の独立な折衝だと云えないことは明らかだ。軍部の監視の下に外務省が衝に当っていると云った方が正直な云い方なのである。
 無論××××××××××事件であるから中国側に苦情のありようはない。中国側は、党部の名に於て、日本側の要求全部を容認することとなったのだが、之に対して例の磯谷少将は語っている。「今回の事件に関し中央党部はわが方の直接要求条項を逐次履行しつつあり、稍誠意の認むべきものがあると考えるが、軍としては、有吉大使が希望条項として提示した上海市党部の撤収を事件の根本的解決策と思考し、従来の措置では未だ全的に満足することは出来ない。この実状に鑑み、中央党部が一日も早く自発的に上海市党部の撤収を断行することを期待する」と(七月九日東朝紙)。だからここで明らかなように軍部は外務当局の交渉振りの監視に任じているのである。単なる個人の意見として、右のような言明が出来る筈はない。――それに就中注目すべき点は、党部の撤収なるものは日本の軍部否出先軍部が、北支問題でもチャハル問題でも持ち出して中国側に容認させた根本要求の一つだということなのである。だからこの点で、不敬事件に就いては、北支事件――チャハル事件――不敬事件、という具合に話しがうまく続くのである。
 軍部のこの監視[#「監視」に傍点]振りは併し、上海に於ける日本人居留民にそのまま反映している。民団各路連合会では緊急会議を招集して当局(即ち外務当局)を鞭撻すべし、という意見が一時有力となり、軟弱外交(之が日本の外務省に関する伝説である)を文書で痛罵する者もあるというわけだ。併し海外に居留する日本人の動きなどは、××××××××すべきものではない。現地[#「現地」に傍点]や局地[#「局地」に傍点]に眼がくれて、それに植民地根性丸出しが多いから、一般社会的な問題にすべき現象ではない。こうした云わば居留民的ファッシズム[#「居留民的ファッシズム」に傍点]とは関係なく、日本は東洋の平和のために、忍ぶべからざる行為をも忍んで遂行しているのだ、ということを忘れてはならないのだ。
 一体北支問題は、広田対支外交に基いて日支経済提携が成り立ちそうになった丁度その時に、不幸にして突発したものだった。吾々は折角出来かけた東洋和平の基礎が、際どい処で覆されたと思って失望したのだが、併し雨降って地固るの喩えもある通り、外務省式の二階から目薬的な日支親善の代りに、北支事件の結果成功しそうに見えるものは、もっと手近かの「北支経済援助」だったのである。一般的な日支親善の代りに、北支那に於ける日満支経済ブロックが成り立つことになった。つまり日満ブロックの北支進出ということだ。之が北支の例の緩衝地域の意味でもあったのだ。――だが北支問題の結果は単に北支に於ける日支親善だけではなく、夫が同時に国民党中央部の多少の勢力偏成がえを伴った結果、親日派の権力の増大を来したので、一般的な日支親善の実質も亦段々物になりかけて来たと世間では云っている。
 これほど結構なことは、支那にとっても又とある筈はあるまい。例えば今まで云わば一種未開の地であった北支那に、鉄道網が敷かれたり、製鉄、石炭、電業、電信、電話等の産業交通が愈々盛大になったり、満州国の貨幣が一律に通用したりすることによって、北支は全く文明開化されるわけだ。イギリスはこうして印度に恩沢を施した。日本はそれを更に親切な仕方でやるのだから、支那側に文句のある筈はないのである。――処が頑迷固陋の中国人は、自分の畑を他人が耕して呉れるのを、どういうわけだか余り歓迎しないのではないかと思われる。例えば当然無条件に支那側が恐縮して然るべき例の不敬事件に就いても、中国国民は必ずしも恐縮してはいないらしい。却って、この事件の責任者の公判廷には、排日宣伝ビラが貼られたり、傍聴人が被告と握手して之を激励したり、弁護人と傍聴の党員とが計画的に騒擾を起こしたりしているのである。傍聴者達は騒擾を起こしておきながら一人として逮捕されるものがないどころか、凱歌を奏して法廷外に出て行ったというのだ。
 日本側代表と日本国民自身とが同じ意見か××××××××が、少くとも中国に於ては所謂親日派なる中国側代表者と中国国民とは日支関係に就いてまるで別な意見をもっているらしい。すると日本は否少くとも日本側代表者達は、中国国民そのものとは全く別な何物かと、和平の握手をしたこととなる。すると例の北支の文明開化の聖業なども、果して中国国民(北支那はまだ中国政府の領土なのである!)にとって利益になるのかどうか当てになったものではない。現にこの北支産業開発に際して、一等痛手を蒙るものは従来の蒋介石氏の二重外交を支援する浙江財閥だと見られているが、それでは日満の助力によって北支国民大衆の大衆財閥(?)とでもいうものが支配するのかというと、そうではない。そこに支配するものはより有力なブルジョアジーとより優雅な兵備とである。自分でなくて他人が住んでいる立派な建築や、コンクリートの立派な軍用道路を見て、自分までが幸福になったと思い込む人間は、よほどの田舎者だ。中国国民が悉くこの種の田舎者でない限り、日満的パックス・ローマナ(Pax romana)ローマの平和も心細いものだ。
 処がまだまだ、この日満的パックス・ローマナには他に問題がある
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