が実証的な納得が行くということは、こうした方向にこそ警察本来の本然の有用性が横たわっているということを物語っている。従って又、これ以外の警察権力の発動は、大方世間が必ずしも実証的には納得が行かず、高々イデオロギッシュに「そうかナー※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」と思われる程度のものにすぎず、従って多くは無用で却って不都合でさえあるように考えられ得るものだ、ということを告げている。政治家などは人気恢復の材料がなくなると国体明徴の演説をやったり何かし始めるが、所謂機関説の是非は専門的に研究して見なければ判らぬが、少くとも機関説が国民の生活を直接に妨害するという実証的経験を有った人間は一人もあるまい。菊池男だって鈴木総裁だってそういう実証的体験は持っているわけではないだろう。一般に思想警察などは民衆自身の身辺からは縁遠いものであって、之は国家や財界の特殊な要路にでも立たない限り実証的な心配の種になるものではない。民衆は思想警察が一体何のためにあのように眼の色をかえてかけずり廻っているかが、簡単には飲み込みがつかないというのが事実だろう。読者はこの点よく反省して見て欲しい。
風紀警察になればこの点益々難解になるかも知れない。一体この間バーやカフェーから学生を追い払った風紀警察によって、一等直接に実証的な被妨害感をもつものは学生自身だろう。ここでは元来が善良な併し金があって少しばかり利口でない学生の権益が、風紀警察の消長と逆比例するわけだ。そういう学生達にとっては風紀警察位い無用で又有害なものはないという風に考えられる。そして風紀警察のこの社会的の無用長物的特色は、云うまでもなく別に学生カフェー問題にだけ特有なのではない。到る処この風紀警察なるものは×××××と社会的に有害な摘発、挑発とをさえ敢えて行っている。でつまり風紀警察も、思想警察も、警察本然の機能から××た逸脱的な過剰警察だとさえ云っていいのである。之に較べると暴力団検挙は、全く警察らしい本然警察の正道を発見したものだと云わざるを得ない。
人の云う処によると、今回のギャング狩りは一種の右翼団体弾圧の意味があるというのである。或る評論家が新聞で、左翼を弾圧しつくしたので安心だが、右翼の方が危いと思っていた処、今度の検挙で安心出来たと嬉んでいたが、この人によると左翼に対しての心配も右翼に対しての心配も同じ位いの心配であるらしく、それ程どっちも頭の内の観念的な心配でしかないらしいこの心配には一向実証的な現実味がないことが之で判る。併しそれはそれとして、一体ギャング弾圧が右翼弾圧という意味を持っているというのは本当だろうか。
なる程今日でも右翼団体のあるものは単なるギャング団にすぎないようだ。そして之がギャング団たる所以は世間で簡単に考えているよりももっと広い意味を持っているのだ。ユスリやタカリや脅喝ばかりでなく、口頭や推参や文筆による各種のドナリ込み迄も本当は暴力行為に這入らねばならぬ。尤もこういう広義の暴力行為になると世間では之を決してギャング視しないようだが。だが仮にギャング団という意味をごく露骨な旧式な意味にだけとっても今日の右翼団体にはギャング団にすぎないようなのがある。それはどうも事実であるらしい。
併しだからと云って暴力団の検挙がすぐ様右翼弾圧の意味を持っている、ということにはならぬ。無理にそういう意味を見て取ろうとするのも間違っているし、そういう意味の心算でやって見せようというのも誤りだ。単に右翼団体と暴力団とがうまく重り合わない二つのものだからというのではなく、暴力行為の取締りは決して、左翼団体に対する弾圧と同じ意味に於ては、右翼運動団体に対する弾圧とはならないからである。弾圧されるのは高々右翼暴力団で、純真なる(?)右翼思想運動団体は之によって却って世間的信用を高め高級な保護を与えられる結果になるかも知れぬ。だから之は実は右翼に対する弾圧どころではないのである。――尤も之によって右翼愛国団体の顔を使って一働きやるというようなことが段々流行らなくなり、即ちそれだけ右翼というものの幅が利かなくなるので、やがて右翼団体の勢はおかげで或る程度まで下火になるだろう。元来右翼思想運動の一つの大きな要素は取りも直さず、そういう幅の利き目にあったのだから。だが之は思想的運動として右翼活動に対する弾圧とは別ものだという点を見落してはならぬ。左翼弾圧に平行して右翼弾圧の意味で暴力団狩りをやるというような考えがあるなら、粗漏も甚しいと云わざるを得ない。
つまり今回のギャング狩りは決して、右翼弾圧というような、思想警察の外貌の下に本然的警察機能を退化させた偽似思想警察(本当の思想警察は今日左翼運動に対してしか存在しない)の仕事ではなくて、全く警察本然の警察機能にぞくするものだと私は考える。右翼運動に対する本当の本然的警察機能は別にある筈なのだが、それが今云った思想警察という洞窟に封じこめられて無力化されて了っているので、右翼団体はもはや本然的警察機能の対象以外に横たわるものとなって了っている。わずかに暴力団という、右翼団体の身代りが、この本然的警察権の槍玉にあげられたに過ぎない。之によって右翼そのものは益々警察から安全になるのだ。処で一体、本然的な警察機能が右翼団体に及び得ないものとすれば、果して一切の暴力行為に対する警察の社会的機能に於て完璧を期待し得るかどうか之が何より大切な疑問の要点なのである。
世間の一部の人は、今度のギャング狩りを目して、何だ今更わざとらしく、と云うかも知れない。それは無意味に皮肉な批評という他はないが、併しいつでも出来る筈のことを偶々最近気が向いたから始めたというような印象は確かに消し難い。今にしておそきを憾むのであって、やったことが悪いというのでは重々ないが、今更らしく鳴物入りであるのがチグハグな気持ちを与えるのは事実だ。それがというのも、大体検挙の対象が常習犯的存在で、或る意味では警察が半ば知っていて時宜的に手心をしていた対象だと考えられるからである。云って見れば社会で培養したバチルスなのだ。こういう人工培養による細菌を処理することは全く容易なことだろう。警視庁はこの容易な点にだけ手を染めるのではないか、というのが世間の感じなのである。
つかまるものは尤もらしい小物ばかりで大物は結局物にならず又物にしないのだろう、というような懸念も、全くここから来る。尤も之は総監が極力国民に向って誓っている通り、決して当局の肚ではない。吾々はあくまで徹底的に暴力団をやっつけるという当局の声明を信じることが出来る。もしそうでなければ、今にアメリカのようにギャングが発達して組織を有つようにさえなるだろうからだ。処で併し、吾々が信用している範囲は、当局が徹底的に「暴力団」をやっつけるということであって、それ以上に及ぶものではないのであるが、というのは、多少とも暴力を常習又は渡世とする団体乃至個人を弾圧するということであって、或る団体が臨時に連続的に暴力化したり、ある個人が或る団体を背景として暴力を振ったりすることは、この「暴力団検挙」とはあまり関係のない問題なのである。即ちこの暴力団検挙は決して社会に於ける暴力行為の取締りという社会の不可欠有用な警察機能の全部を占めるものではないのである。暴力を商売にする暴力団は之で弾圧されるだろう、だが暴力を職責とする暴力団はその弾圧など思いもよるまい。そして困ったことには暴力を職責とする暴力団は、この社会では一向暴力団というものの内に数えられていないことだ。それ程吾々の社会は幼稚なのだと見える。
だが暴力を職責とする暴力団が警察権の対象になりにくいことには深い理由がある、ということを無論見遁してはならぬ。この社会で何かの職責を掲げるためには、その職責は結局之を国家権力から導来し、国家権威を勧請したものでなくてはならぬ。だから暴力を職責とする各種の暴力団は、終局に於て国家権力の私的複製であって、そこに事実上社会的な権威があるのである。こうしてその暴力は国家的に従って又社会的に権利を与えられ承認を与えられる。各種の半合法的暴力はここから続々として生まれ出る。これには同じく国家権力の複製たる警察権力も、無下に手はつけられないだろう。それよりも警察権力自身が又、この半合法的暴力を援用した方が途は平坦だというものであろう。裸体にして焼火箸や煙草の火をつけたり、逆さまに天井から吊下げたりすること(五月三日付東京朝日新聞二頁)は、必ずしも所謂暴力団ばかりがやることではないのである。
でこういう風に考えて行くと、今度の暴力団検挙にも、明らかに一定の社会的な限界があるということが見当づけられると思う。之は別に、検察当局が外部のどこかから牽制されるというような原因に基くのではなくて、検察当局の国家的従って又社会的な権力半径の本性から来る制限なのである。一般に非合法乃至半合法の個人的団体的又公的でさえある暴力(単に物理的暴力に限らず結局に於て物理的暴力を指向する言論上の暴力をも含めて)を取り締ることは、苟くも警察の本然の機能が社会人の日常生活の保護にある以上、最も代表的な警察機能でなくてはならぬ筈なのだが、それがこの社会では一定の行動半径の外へは決して出ないのである。この社会に於て本然的警察機能はこの通り決して無条件に発揚され得ないのだが、一方社会人の日常生活の保護には、殆んど何等の関係もない思想警察の方は、殆んど無限の権力半径を許されているのである。こういう重大な比較を抜きにして、左翼弾圧とギャング狩りとを天秤にかけようとする社会人がないでもないのを見ると、私は非常に腹が立つのだ。
ギャング狩りは云うまでもなく老若の不良少年の手入れである。この際不良少年の分析をして見たいのだが、時間が切迫しているので止めにする。(一九三五・五)
[#地から1字上げ](一九三五・六)
[#改段]
膨脹するわが日本
世間が一時北支問題に絶大な関心を寄せた理由は、よくよく考えて見ると結局、それが日本とどこかの国との戦争へ導きはしないかという惧れからだった。所謂現地にいるのでもなければ出先意識も持っていない処の普通一般の日本人は、北支那に於ける諸勢力の不埓な排日排満の動きを直接目にしているわけではないから、排日排満の方は余りピンと来るとは限らないので、それより直接心配になるのは国家総動員式な戦争なのである。何より貴重な日本人の生命が大量的に失われたりして、而も自分自身もその大量中のあるか無いかの一粒に化しはしないか、という心配なのである。之は云うまでもなく極めて下根な心配であるが、又ごく有態の心配であって、之が直接心配にならぬと云う人間は、余程の嘘つきだろう。そういう人物は万事信用のおけない人間で、公明正大な日本人の風上にも置けない人間だ。
尤もどうしても必要な場合には、国家のため命を捨てることは必要でもあるし道徳的なことでもあるが、併し国家自身が折角、そういうことにはなるべくならぬように、万事を犠牲にしてまで莫大な国防費を費しているのに、それが戦争になりましたでは、全く国家に対して申し訳のない話しだろう。世間の普通一般人が戦争を惧れるということの内には無意識の中に、そういう忠良な意味が含まれているのである。
だが幸にして北支問題は戦争へは導かなかった。よく考えて見ると、導く筈もなかったし、導き得るものでもなかったのである。中国中央軍と党部とが河北省を撤退するという中国側の最後の解答によって、日本軍部側の対支要求は都合全部容れられることになって、ここに河北省をめぐる限りの北支問題は一段落となったわけである。中国国民もそうだろうが、吾々日本人も(軍需工業家や戦争に特別な利益を感じる商売人は除いて)之で一まずホッとしたと云っていい。
アメリカやイギリスの一部の輿論には、この北支問題を目して北支独立に導く心算ではないかと憂えた向きもあったようだ。だがそういうことは云うまでもなく無意味なデマに過ぎない。一体そんなに容易に一つの国が独立
前へ
次へ
全41ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング