教授の花形も、実は大した免職甲斐がないのである。
事実、検察当局は研究の結果、美濃部学説は出版法違反にはなるが、不敬罪にはならぬ、という結論に達したらしい。出版法違反と云ってもこの場合には国体に関係したことらしいから(之も検事を信じる他ない)、その罪は軽いとは云えないわけだが、併し博士の犯罪はその出版行為に限定されるわけで、多分大学で講義をしたり多数の学者を養成したりしたという功績に於ては、犯罪を構成しないわけになるのだから、まず世間で指摘している例の奏請責任問題に抱ける矛盾は免かれる。併し当局は、之以上判定に油が乗ると、解くべからざる矛盾に陥るのだということを覚えておくべきだ。
尤も今まで歴代の内閣がこの不当な著書を看過したという責を問われるかも知れないという点に就いては、内閣は、それは時代の風潮が変って来たのだから問題にならぬという解釈を採っているらしい。つまり時代がファッショになったからファッショの標準で法文を解釈すべきだという意味だろうと思う。そうするとこうしたファッショ好みは国家によって公的に社会の新常識=通念として承認されたことになる。博士は犯罪は構成するが之を起訴すべきか否かは当分、と云うのは満州国皇帝陛下御滞在中、輿論の趨勢を見てからのことにすると新聞紙は伝えているが、他方美濃部排撃の一派は、やはり御滞在中運動を見合わせるという同じことを云っている。ここからも亦、天下の輿論が国家によってどういうものとして公認されているかが理性によって推論され得る。尤も之は理性による推論だから日本の新常識には通用しないかも知れぬが。
滝川事件では文部省の反省を促し、統帥権に就いては軍部の反省を促し、帝人事件に就いては司法部の反省を促した最近の美濃部氏は、文部省関係である教授免職は年の功で免れた代りに、軍部の反対と司法部の判定とによって、居ながらにしていつの間にか犯罪者となったのである。時間の又は時代の推移がこの結果を齎したとは云え、法律の専門家で而も立法機関たる貴族院の議員である博士さえ、ついウッカリしてこういう生存適応のやり損いをやるのを見ると、日本のムツかしい法律に無知であり而も立法の議に直接参画出来ない吾々素人庶民は、一日も安んじて時間を推移させることが出来ない、などと愚痴をこぼす者は逆賊であるかも知れぬ。
だがそういう不景気な話はやめて、もっと面白い話に移ろう。そう云ったら怒る人もいるかも知れないが、とに角思想関係で馘になったとかならぬとかいうのでない、もっと面白い馘になり方もあるという話だ。教育史上では、この間の法政騒動は、美濃部問題や滝川問題に負けず記録的なものだ。というのはその馘首量に於て優秀なのである。敵味方入れ混っての合戦だということをまず注意しておいて、最初の前哨戦は平貞蔵教授の免職である。一体九大法文学部の初期の教授達が例の(又出て来たが)美濃部博士の系統だったと似て、法政の経済学部の教授達は大体高野岩三郎――大内兵衛系統の新進だ。その内で一等権謀もあり率直さもあるのが平氏だったようだ。表面上はあまり香しからぬ理由で(尤もそういう理由は大学の自治の手前大して重大性を有つとは[#「有つとは」は底本では「有っとは」]思われないのだが)、罷めて確か満州の調査機関に赴任して行った。その後本隊の決戦が行われることになる。
そこで馘になったのは所謂四十七士で(尤も正確には四十七人はいなかった)、問題の中心人物野上豊一郎氏を始めとして、相手方の森田草平氏が不倶戴天の仇敵のように考えている内田百間氏や、山崎静太郎・佐藤春夫・土屋文明・谷川徹三・豊島与志雄等の人々がその内に這入っていた。尤も学部に関係ある人は学部だけ残ったが。(私も四十七士の仲間に入れて貰った一人だ。)何と云ってもこの内で興味のあるのは野上氏と百間先生だろう。
反野上派と当時反野上派にすっかり吹き込まれていたお人よしの法政大学の学生生徒諸君とによると、野上氏位い官僚的な横暴な人物はないのだそうである。野上がいるために法政は自由を奪われ、学内自由主義は日に日に消え細りつつある、というのが、法政大学の進歩的な学生生徒の社会科学的分析である。なる程野上氏が人によっては官僚的に見えたり横暴に見えたりすることは事実かも知れない。だが凡そ官僚的でなくて横暴でない私立大学の理事などが論理的に可能だろうか。氏が決して官僚的でも横暴でもないらしいことは、夫人野上弥生子氏の小説「小鬼の歌」に就いて見るべきだ。
官僚的だとか横暴だとかいうのが、法政の出身者でなくて帝大出だとか、法政の卒業生の云うことを聞かないとかいうことだとすれば、真面目に対手となれぬ。だが私は事実野上氏を官僚的で横暴だと信じている。なぜなら夫によって初めて、氏は法政を出たあまり柄の良くない老先輩の学内行政進出を防ぎ得たからである。今日の私立大学の大先輩達が、大学を自由にするのは、自分達の自由にする意味であって、大学の自由を与える意味ではないという事実を、併し若い卒業生や学生は知らなかったか又は過小に評価していた。野上氏が退いてその結果は、校友理事達の云わば美濃部排撃的な常識が権力を持つことになって、自由主義教授達は尽《ことごと》く追い出されるか時間を激減されたのであるが、頭の良くない法政の学生や若い先輩は、今更のように驚いて、之を一種の偶然な原因に帰している。この間『社会評論』の四月号に出た法政騒動談を読んで見たが、矢張法政一流の偶然観的社会分析(?)しかない。――野上氏の人格などとは関係なく、法政の条件は分析されねばならなかったのだ。
野上氏は長く関係していた法政をやめて、九大の英文学の講師をしたり、能の本を出版したりして、愉快そうにしているが、之は一体どうした間違いだろうかと思う。なる程野上氏には之で見ると、あまり「愛校心」はなかったようだ。
内田百間氏は免職と同時に続々として随筆集を出版して敵味方を驚かした。氏の作品を見ると、私は氏が一種の被害妄想狂であることを信じる。氏の有名な借金上手も、この点から充分に説明出来る。借金という貸主からの被害がなくなると、内田氏は初めて本当に憂鬱になるだろう。愛惜される憂鬱ではなくて、憂鬱な憂鬱が来るだろう。その時が来るまで氏は書きつづける。氏は決して森田氏が云っているような騒動の巨魁などではない。
百間氏の被害妄想症に対比されるべきものは森田氏の有名な露出症である。森田氏はいつでも忽ち用もないのに腸《はらわた》を皆に見せて廻る。尤も見て了ってから徐ろに又元の腹壁に大事そうにしまい込むのであるが。この露出症が学生の気に入って、若い卒業生達に担がれて反野上の巨頭となったのだが、元々大した見透しがあったのではない。常識的な理事が出て来ると、忽ち馘となって了って、担いだ若い校友達の方は教師に返り咲きしたり新らしく学内就職に成功したりしたから、そこで氏は西郷南州となった。すると野上氏はさしずめ山県有朋になるわけだが、なる程之は官僚の元祖であった。
罷免後の氏の消息をあまり知らないが、何と云っても草平氏は過去の型の人物ではないかと思う。帝大新聞に例の小説『煙烟』を『梅園』と書かれたと云って悲観していたが、今は大衆文学や歴史小説に道を拓こうとしているらしい。
立正を馘になった三枝博音氏をこの辺で※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入しておかなくてはならぬ。しかし余白がないから別の機会に譲ろう。今は日本思想史の究積中だということだ。
法政を馘になったので有名なのに、他に三木清氏がいる。氏に就いては世間はよく知っているから言わない。復職する筈であった処、法政騒動の結果、氏自身の見透しを裏切って復職不可能の現状にあるようだ。――私自身も、騒動で半分やめ、後の半分は右翼新聞の注文で大学当局が無理にやめさせたのだが、併し健在なること、如是。(なお高商其他で追放された左翼教授は数知れずあるが、一々知らない。併し大体からいって、思想問題というのは大体口実で、その背後には必ず勢力争いがひそんでいることは記憶されねばならぬ。云うまでもなく学校当局さえしっかりしていたら、左翼教授は決して馘にはならぬものだ。)(一九三五・四)
[#地から1字上げ](一九三五・五)
[#改段]
ギャング狩り
五月二日以来、小栗警視総監は、内務省、全国警察部、司法省らと連絡を取って、各種の暴力団乃至暴力団類似の常習者の検挙に着手し、すぐに二千五百名以上の検挙を見せている。一般国民は甚だしく之に感謝の意を表し、銘々夫々の立場から之を援助することを惜んでいない。都下の各新聞は検挙の模様を毎日克明に報道することによって、国民と検察当局とへ刺※[#「卓+戈」、213−上−7]を与えていることに興味を有っているように見える。この企ては必ずしも警視庁としては珍しくないのだが、今回のような大規模で組織的なのは多分今まで見られなかった処だろう。警視庁が自発的にやったことで、之ほど評判のよいものを之まで見たことがない。
但し世間で一等心配になるのは、検挙されたり起訴されたりするだろうこれ等暴力団が後日釈放された暁に仇をしはしないか、ということだから、この検挙は半永久的に続くのでなければ何にもならぬ。今後の代々の総監の手腕を評価するバロメータが、暴力団検挙の成績如何にあることにでもなるのでなければ、暴力団は決して影をひそめるようにはなるまい。そうしない限りこの企ては決して成功しないだろう。
だが一体、警視庁のこの企てのどの点がかくも世間を喜ばせているのか。それはこの種の犯罪が、一般の世間人から見て、紛れもなく実証的な現実味を有っていると見えるからなのだ。と云うのは、例えば共産党というようなものが恐るべきだとか何とか云っても、日本ではまだ殆んど一人も、本当に共産党員のために苦しめられた人間はいないらしく、共産党の害悪に就いては、よ程熱心に話をきき不審を克服しない限り飲み込めないものがあるのであり、その意味では之は云わば全く仮空の人気の悪さに帰着するという他ないのであるが、之に反してギャングの害悪になると、社会の少なからぬメンバーが事実上身にしみて直接それを経験しているのである。この他人からワザワザ教えられなくても実証的に現実さを伴って自分に判る処の害悪のこの本拠を警視庁が衝いて呉れたのだから、世間では初めて警察の有難みを身辺に感じ始めたと云ってるようなわけなのである。
尤も、暴力団から大きくユスられたり何かするのは、例えばデパートや保険会社だそうであり、従って結局資本家のポケットがいためつけられるだけだから、世間一般にとっては大した有難みではないという者もいるかも知れないが、併しギャングの行動乃至その行動の対象には色々あるわけで、大きな会社には外来の暴力団にそなえるための一種の責任ある暴力団が組織されている処もあるから、それだけ却って暴力団の暴力団らしい言動は、孤立した弱い個人や、所謂弱い商売などという対象に向けられることになる。普段は社会的に弱い地位におかれた個人や所謂弱い商売(接客業其他)に強く当っている警察が今度は同じことをやる暴力団と正反対の立場に廻ったのだから、之は何と云っても推賞しなければならぬ企てなのだ。
都下の或る小新聞の報道する処によると、今度のギャング狩りには初めから大新聞との連絡がついていたのであって、各種の微小新聞をいためつけることによって、大新聞のファッショ化(?)を招来しようという新聞営業戦術と結びついている、というのである。その証拠には大新聞の内からは殆んど一人も怪我人を出していないではないかというのである。こう云っている新聞自身は、その社長が「怪我人」として出ているらしいから、この推察の真偽の程は判らないが、仮に之が本当だとしても、こういう観点から今回の企ての価値を割引きすることは筋が通るまい。大新聞の利益になろうがなるまいが、各種のゴロツキ新聞は総ざらえにすべきものではないのか。
今回の警察権力の発動に就いて世間
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