民ノ養成ハ一ニ師表タル者ノ徳化ニ俟ツ』と仰せられたる御聖旨に副い奉るもの、……西博士をわが学園の後任学長に任じて真に国民道徳顕現の源宗たらしめんことを冀《ねが》う」、という如何にも師範学校らしい内容のものである。でここに完全に教育勅語的な文学博士西晋一郎教授という存在が横わたっているということが、新しくつけ加えなければならない条件となるのである。――だがこうなって来ると、話しはおのずから別になる。問題は西氏の「人格」と西人格の一群の崇拝者のミュトス(神話)とに帰着するのであって、文部省のやり口の不合理性とはあまり関係のないことになる。
問題はただ、文部省内部に於ける対立が、広島文理科大学に於ける、西閥(西教授の意志に反すると否とに関係なく)と反西閥との対立とが、偶々武部学長(?)を機縁として相応したまでであって、おかげで武部氏は如何にも反教育勅語的な人格に見立てられそうな破目に陥ったというだけである。日本精神文化研究所にだって、紀平正美博士が控えている。だがどういうわけか、紀平氏を押し立てて関屋所長赴任反対を唱えた所員の存在を見ない。だから不合理な点は、文部省の方針自身の不合理性にあるのではないらしく却って西博士の存在の不合理性にあるとさえ云えることになるかも知れない。否、文部省も文理科大学も日本精神文化研究所も、実は一つの方針の下に立っている、西晋一郎博士だけがこの方針とは別な存在だと考える処に、師範生の「純真」な錯覚があるのだ。
例の声明書をもし本当に真面目に取っているのならば、敵は正に本能寺にありと云わねばならぬ。苟くも人類を教育しようと欲する処の大学やそこの学生は、本当に自由であるべきだ。そうでないと今度のように一文部省などから馬鹿にされるのである。
二、投書
陸軍当局は云っている、「金持の伜なら柔道何段という体格を持ちながら徴兵検査も受けずにブラブラしているし、小作人の伜だけが兵隊にとられるのは面白くない、という投書が頻々と舞いこんで来る有様である」と(東京日日五月二十三日付)。そこで陸軍では不就学の大学生約三百名を徴兵忌避で[#「徴兵忌避で」は底本では「懲兵忌避で」]告発する方針だと云うことである。
内訳は日大七四、中大五〇、明大四八、法大二六、早大二六、慶大二四、関大一九、立大一六、東大一三、計二九六名だと伝えられる。単に徴兵を延期することが目的で大学に籍を置いている者は兵役の一部分を免れんとするもので立派に兵役の忌避であり、彼等が教室に顔を出さないのがその徴標と見做されるというわけである。
だが問題は実際上はそんなに簡単には片づかないらしい。東朝や東日の投書欄によると、高等学校を卒業しても帝大や其他の大学に這入れないものが年々数千名にも上るが、そこで兵隊に採られては今後の学生生活にスッカリ、ブレーキをかけられることになるので、夫を避けるために、入学試験勉強期間中私立大学などに籍を置くのだから、之は相当同情されるべきものだ、というのが第一の種類の抗議である。第二には、出欠を取らない大学でどうやって就学不就学を決定出来るか、教室へ出なくても立派に勉強出来るということも考えて見なければいけない、というのがもう一と種類の抗議である。
尤も陸軍では学生自身よりも、徴兵延期を看板にして入学者を吸引しようとしている私立営業大学を懲しめようとするものらしいのだが、もしそうならば学生は随分割の悪い道具に使われるわけだ。それに之が農民に対する一種のコンペンセーションとして行われるならば、学生は増々割の悪い道具になるわけである。無論この際損をする学生はどうせロクな学生ではないのだが。
だが能く考えて見ると、別に学問や勉強だけが特に神聖なものでもなければ、特にそれだけが中断すると困るものでもない筈だ。農民の生活だって一年半なり二年なり中断すればそれだけ後の生活には支障を来たすし、労働者は又就職口の探し直おしをしなければなるまい。それに、研究が神聖で労働が不神聖だということもあるまい。否労働こそ神聖でなければならないのだ。だから卓越した日本の天才的な労働者達は外国の労働者などよりもズット長い最少労働時間を約束しているのだ。日本の製品が海外に勇飛して諸外国の羨望の[#「羨望の」は底本では「※[#「義」の「我」に代えて「次」、159−下−24]望の」]的になっているのも此労働の神聖さをよく吾々日本国民が自覚しているからなのだ。で何も学問や勉強をする学生だけが、徴兵上の特権に与かる理由はない筈である。もしいつまでも親の脛を噛って学問や勉強を続けて行けるということが社会の一種の特権階級の特権であるが故に徴兵上も亦そうした特権が必要だというなら、夫は由々しき社会の欠陥を合理化するものでなくてはなるまい。
それに、大学に籍を置いて毎日教室へ出席している学生であっても、必ずしも学問や勉強をやっていると思ってはならない。まして彼等がそういう意志を有っているなどと決めてかかることは気が早や過ぎる。実はこんな楽な面白い生活はないのだから、大体之は一種の娯楽である場合が少くないのだ。少くとも学生という資格を有っている間は、大威張りで親から金も貰えるし、世間でも一人前の、いや一人前以上の人間として通用する。もしこうした特権に相応すべく、徴兵延期の特典が与えられる必要があるというのでない限り、逆に学生こそ徴兵のマイナスの特典に価するものでなければならぬと一応そういうことになる。
だから学生に徴兵上の特典がある限り、農民や労働者にだって、徴兵上の特典が必要である。個人の一身上の生活の必要から云ってある限度まで徴兵を延期して貰ったり何かすることは、農民や労働者にとってこそ必要なことでなければなるまい。
もし農民や労働者に、そうした特典が与えられれば、それはもはや特典でも何でもなくなって、極めて当然な当り前なことになるだろう。そうすれば又一々コセコセと「部分的な」徴兵忌避を気にする必要もなくなるわけで、それだけ少くとも、外見上の非国民は減って行くわけである。そうしてやっても尚進んで徴兵に応じなかったり徴兵を回避したりする人間があれば、夫こそ初めて本当の非国民なのだ。
陸軍に例の投書をした連中は、その投書でどういう結論を得ようとしたのか私は知らない。金持の息子が遊んでいて自分達だけが兵隊に採られるのは怪しからんというのならばそれはただの直接感情としての不平の表現に過ぎないのであって、而も最も性の悪いことには、兵隊に取られること自身が何か損ででもあるかのように仮定しているような口吻をもらしているらしいことだ。それから俺達には特典がないのだから地主の息子の特典も取り上げて了えと云う積りならば、夫は嫉妬か意地悪るというものだ。実際、「不就学学生」を徴兵忌避で罰しても、農民は徴兵上何等の特典を受けるものではないだろう。一体農民達はどういう積りでああした投書を書いたのだろうか。その吟味は案外無雑作に片づけられているようだ。
が云うまでもなくわが国の農民は皇軍の枢軸である。農民の満不満は皇軍自身にとって何よりも重大な利害のあることだ。農民の要求は丁寧に打診されねばならぬ。で再びあの投書だが。
それはそうとして、最近陸海軍では、普通刑法に治安維持法(尤も之はあまり普通な刑法ではなくて寧ろ異常な刑法なのだが)の改正に平行して、軍刑法の改正(?)を企てている。
審議委員会で逐条審議した際最も重点を置いて議論されたのは、反軍運動即ち反軍隊的言動、もっと詳しく説明すれば、軍の不利益になり軍の秩序維持を妨げる言動、に対する罰則を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入する件であった。治安維持法は少くとも資本主義の何らかの否定に対する罰則を規定したものであることは云うまでもないが、この治安維持法と、この反軍取締りの軍刑法との間に、平行関係があるということは興味のないことではない。だがそれはとに角、こういう法律が整備されねばならぬからには、反軍的な言動が現に旺盛になりそうな危険がある、ということを想定しなければならないのが遺憾である。
で三度例の投書だが、あれは陸軍に向って投書したものだから無論軍の利益を慮って行われたものに違いない。だが、文章はどうにでも書き様があるのだし言葉にも色々の使い方があるのだ。同じ内容の事柄が別な言葉で別な個処で述べられないとも限らない。そして夫がもし忠告だとするならば、それが好意に出たものか悪意に出たものかは容易に見分け難いものだ。
でそう考えて見ると、何が反軍的で何が反軍的でないかは、仲々ムツかしい問題になるだろう。
軍の専門家の方では判っていても、同時に農民労働者勤労大衆も夫がピタリと判っているのでなければ、反軍取締りの法律も、その道徳的な権威に乏しくなるし、法運用の技術上の信用も薄らぐわけだ。
如何なるナポレオンの法典も、解釈が問題になるようになっては、もうお終いなのである。夫はナポレオン自身がそう云っていることだから間違いはない。
例えば、坂野少将という人がいて、海軍は政治に干与しないと声明したが、夫が何よりもの政治干渉と解釈されるというようなわけだ。
三、メリケン
東郷元帥の国葬の夜、アメリカのNBC放送局から、スタンドレー大将の弔辞の後で、「かっぽれ」や「六段」や「お江戸日本橋」などが、「日本音楽」の名に於て放送されたということは、何と云っても取りかえしのつかない打ちこわしで、放送内容もロクに打ち合わせず、スイッチを切る気にもならなかったAKの、最大の不祥事件だったと云わなければなるまい。
一体東郷元帥は決して日本又は東洋の東郷大将ではないのである。世界の東郷提督なのである。
日本海海戦の場処は日本海だったが、その頃は朝鮮民族はまだ日本民族とは別なものとなっていたから、名こそ日本海でも国際的な公海で戦ったのだし、相手は云うまでもなく帝政ロシアの軍艦であった。それに元帥の率いたわが軍艦はイギリスで出来たりアルゼンチンの手に渡るのを譲り受けたりしたものだった。そして元帥の武功は全く国際的に響き亘ったものだったのだ。
多分元帥の大和魂を除いては、その語学や戦略戦術に到るまで、国際的なものだったのである。
そこでアメリカなどもスタンドレー将軍が弔辞を呈するということが甚だ自然だったわけである。
併しアメリカでは東郷元帥のこの国際性に対する認識が充分ではなかったようである。アメリカは東郷元帥の国際的な葬儀を弔するのに、国際的な哀悼の曲を以てすべきであった。然るに何事ぞ、わずかに「ニッポン」音楽を以て足れりと考えるとは。アメリカは一体日本に対する正当な認識を欠いている。単に日本の「特殊事情」を、理解し得ないばかりでなく、日本の国際性をさえ理解していない。
「メリケン」人は国際的でないということがニッポン的なことであり、ニッポン的でないことが国際的なことかと思っている。元帥の英霊に対しては失礼かも知れないが、フジヤーマやゲイシャやサムライやハラキーリは、他の国にはないからニッポン的だと彼等は思っているのである。
音楽に就いても彼等はこの調子なので、音楽にも「西洋音楽」と「日本音楽」とがあって、西洋音楽は自分達のもので日本音楽が日本のものだと思っている。無論科学にだって哲学にだって、西洋のものと日本のものとが別々にあると思っている。日本には日本精神があり、西洋には西洋思想があると信じているらしい。
彼等は日本人だって欧米人と同じ「精神」を有っているなどと云おうものならビックリして了うだろう。
こうした無知なメリケン人に、今日の日本音楽は即ち取りも直さず西洋音楽なのだということを教えてやりたいものだ。わが親愛なる兼常博士の権威によると「日本音楽」は日本の音楽ではないということだ。日本の尺貫法だってチャンとメートルに基いて法定されているということを、無知なアメリカ人などは知らないだろう。
尤もアメリカ人は一般に無邪気で、従ってユーモラスでもあり又悪
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