査に過ぎないようであるが、併し青年の九〇パーセントが青年訓練所に這入っているとか、兵隊に出れば大部分が伍長勤務上等兵になって帰って来るとかいうことが優良村の優良村たる所以になっている。だから結局、優良市町村というのは優良な兵隊を出すような市町村のことで、一種の軍人村や軍人町のことにすぎない。東京日日新聞でも全国から優良青年を集めて会合をやるそうであるが、多分之は農村の「軍人」達の集会になることだろう。軍部だけが軍人ではないということが軍人乃至軍部の強みなので、なる程国民皆兵である以上、そうある方が尤もかも知れない。
で、軍部のファッシズムが引き潮になったと云ってファッシズムそのものが引き潮になったと思うなら夫は非常な速断だろう。ましてそれで以てリベラリズムが台頭したなどと云うなら夫は気が早やすぎる。
一体なぜ例の治安維持法などが「改正」されようとしているのか。治安維持法を名刀のように愛撫しているわが国の識者は、外でもない専ら、共産主義者がわが国の国体を変革しやしないかと云って心配しているのである。リベラリズムが台頭して来たと云って喜んでいる、わが国の「リベラリスト」達も、この点では全く同じことを心配しているに外ならないだろう。で、荒木陸相が流感に罹ったことによって、わが国のファッシズムは愈々円滑な軌道の上に乗り始めた。世間では、円滑なものだからウッカリ之をリベラリズムと呼んでいるのである。
[#地から1字上げ](一九三四・四)
[#改段]
スポーツマンシップとマネージャーシップ
一、スポーツマンシップとマネージャーシップ
デビスカップ戦に出場のため欧州遠征の途上にあった世界的庭球選手、早稲田大学商科学生、佐藤次郎氏がマラッカ海峡を航行中の箱根丸から突然行方不明となったが、自室から遺書が発見されたので覚悟の投身自殺を遂げたものだということが判った。
遺書には理由らしいものは全く認めてなく単に僚友選手あての謝意と激励とが書き残されただけで、まだしかとした原因は判らないらしいが、何でも前日シンガポールに滞泊中一旦下船、帰国の決心をしたそうで、船長は極力それを勧めたのだが、シンガポール在住の邦人有力者達は是非行けというし、庭球協会からもどうしても行けという命令が来たので、遂々意を飜して再び船の上の人となったのだそうだ。月明りのマラッカ海峡が自分の最後を待っていることを、彼自身その時知っていたかいなかったか、それは想像の限りではない。
彼は今度ですでに四度目のデビスカップ戦に行く処だった、現に昨年の秋デビスカップ戦を済まして帰って来たばかりだ。だから文部省の留学生のように郷愁に襲われるような柄ではない。けれども同行の西村選手からの電報によると、彼の脳中には何かある邪念が巣くっていてそれが彼をたまらなく不安にしていたらしい。タオルを鷲づかみにして額から両眼を何遍も何遍も拭きながら、そうした苦衷を同僚にもらしたというから、その懊悩の姿は眼に見えるようだ。何かの固定した恐迫観念が脳神経にコビリ付いていたのだろう。すでに昨秋帰朝した時以来、友人の語る処によると、数多の奇行が目立つので、友人は無論のこと、庭球協会の幹部中にも派遣反対の意見は強かったという。それがどういうわけか、恐らく当人自身も気分を転換するに好いと考えたかも知れぬ、箱根丸に乗って了ったのである。だが恐らく乗ってすぐに後悔し始めたことだろうと思うのだが。
船の中での彼の懊悩を見て一等事物を公平に親切に考えたのは船長であったらしい。船長は先にも云ったように、帰国することを勧めた。処がシンガポールの邦人達はもっと虚栄心が強くて、日本人が勝つということが何につけ嬉しい植民地根性から、乗船を勧めたものだろう。そこへ庭球協会から、デ杯戦の基金募集がうまく行かぬと困るから是非行って呉れといって来た。庭球協会のこの勧め方は最も合理的であったようだ。併し庭球協会は一つの知識を欠いていた、もし佐藤選手が目的地に行くまでに自殺しないと、彼は必ずデ杯戦で惨敗するだろうという一つの正確な事実の知識を。そうした心理学だか生理学だかを最も好く知っていたのは不幸にして恐らく佐藤君その人に他ならなかったのだ。
協会のこの無知に対して世間は可なりに不満の意を表している。血族や友愛関係にある人達は憤激さえしているらしい。協会葬にもして要らないという気持にさえなっているらしい。それに恐れてかどうか知らないが、或いは寧ろ之を利用してであろうが、関西支部出の協会幹部は総辞職して協会の心胆を寒からしめているようだ。関西支部が取った「責任」にはどれだけの純な所があるか一寸外から見ると疑わしいので、之で以てかねての協会改造の機会を造れると思ったのなら、単に佐藤君の死を上手に尤もらしく利用したわけになる。そうなら本部が庭球のために(?)佐藤選手を犠牲にして※[#「りっしんべん+単」、第4水準2−12−55]らなかったものと五十歩百歩で、いずれもスポーツマンシップに相応した立派なマネージャーシップ[#「マネージャーシップ」に傍点](?)だとは云い兼ねる。
だが、今日の所謂スポーツマンシップというものが、実は一向判っていない代物のようだ。ギリシアではスポーツは多分神々に見せて娯しませる儀式としての演技から始まったのだろうが、ローマ時代には支配階級の娯楽のためにスポーツ専門の奴隷が出来ていた。多少軍事的な意味や社会衛生的な目的もあったかも知れないが、どの場合にも主に、神様か人間かの区別があるだけで、とに角偉い存在の審美的な又は嗜虐的な娯楽のために、スポーツが存在したのだ。今日では神様はスポーツを好くか好かないかは知らないが、とに角明治神宮外苑などでスポーツを見る者は、時代の支配者どころではなく、中間的な存在だというサラリーマンが大部分である。だから支配関係は一見寧ろ逆で、英雄はスポーツマンの方であって、この英雄を崇拝するものの方がサラリーマンのファン達だというわけになっている。(相撲は国技だから、多分厳密なスポーツには這入らないだろうと思うが、その証拠には相撲ではひいき[#「ひいき」に傍点]の旦那の方が関取に対していつも支配者だ。)そして日本ではスポーツマンの殆んど凡てが学生又は学生上りで、その点から云えば全くサラリーマンと共通の社会の出なのだが、この点は相当大切だ。現代のわが国のスポーツマンはサラリーマンにとって憧憬の的で、云わばスポーツマンになり損った卒業生がサラリーマンになっているようなものだ。
だがこう云っても、所詮役者は役者に過ぎない。英雄と云っても人気商売の英雄はナポレオンでない限り本当の支配者ではあり得ない。それは英雄という役目を仰せつかった舞台の花形に過ぎない。丁度廓の太夫さんやサーカスの女王と同じにスポーツマンは一方に於て英雄でありながら、所詮サラリーマン達が手頼って生きている或る世界の弄びものに過ぎないのである。各種の体育協会は、この場合丁度楼主や座長のようなもので、そこから現代のマネージャーシップなるものが発生するのである。世間から一応大事にはされるが併しどこまでも娯楽用に利用されるだけだというのが、彼等選手達の宿命で、そこからあまり我儘も云えなければ自重もしなければならないというスポーツマンシップの約束が発生するわけで、この道徳を大切にする必要が選手自身の生活から云ってあるとすれば、時には選手は自身とこのスポーツマンシップとの間に板挾みにもなるだろう。その結果自殺する場合だっていくらでも想像出来るわけだ。
独り運動選手には限らない。一切の人気稼業の者共は、文士であろうと女優であろうと今日ではこうしたスポーツマンシップを大切にしているし、又大切にしなくてはならぬ。そればかりではない、このスポーツマンシップのためならば、いつかは身を滅ぼすだろうだけの覚悟がなくてはなるまい。現代のマネージャーシップがそれを欲するのだ。
二、賄賂から国民精神まで
例の教育疑獄も一段落告げることになったそうである。もういい加減に一段落つげないと、四月の新学期初めの小学校人事異動には間に合うまい。で、既にこの間小学校長の大異動を見たからもう大丈夫そんなにあの疑獄は発展しないだろう。四月には第二次の大規模な人事移動が発表された。今度は収賄や贈賄の容疑者ではなくて(その方は今も云った通り一段落つげることにしたのだから)、ひそかに入学試験準備などをやっていた校長や訓導に手が廻るらしい。無論之は司法上の問題にはならないから、単に更迭されるという迄だ。
とに角今度はよほど気をつけて、「正しい教員」だけにするか、それとももし正しくない教員が残っているならそれを「正しい教員」にたたき直さなければならぬ。で訓導教育は甚だ重大性を今の処帯びて来た。
東京府では青山・豊島・女子・師範学校の卒業生が二日から就職することになったが、この就職ということが今の場合大問題である。別に就職難だからというのではない、ここでは士官学校と同じに就職難はまず存在しない、問題なのは就職の心掛けなのである。その心掛けは併し就職して了ってからでは多分間に合わないだろう。なぜというに、誰も初めから、就職したら収賄してやろうなどと思う者はあるまい。まして贈賄してやろうなどとは誰も思う筈はない。なる程金を溜めようと考えているものはいるかも知れないが、なるべくならば無理をしないで金にありつきたいという「純真」な気持を持たない者はあるまい。処が一旦就職すると仲々そうは云っていられないということが判って来る。だから就職して了ってからは、もうお説教しても間に合わない。就職の間際に良い心掛けを説教[#「説教」は底本では「説数」]しておくのが一等効き目があるわけだ。
香坂府知事はそこで、三つの師範学校の卒業生四百六十八名を商工奨励館に集めて、集団的に辞令を交付する式を挙げることにした。之は辞令をなるべく出来るだけ厳粛に交付することによって、銘々の任務が並々ならず重大であるという気持を起こさせ、滅多には[#「滅多には」は底本では「減多には」]収賄も贈賄も出来ないぞという気にならせるためであるらしい。尤も香坂府知事自身が一時間も遅刻したことは、この厳粛な式の出鼻を挫いてケチをつけたわけだが、別にそう縁起を気にする必要もあるまい。
この試みは非常に時宜に適したものであることは間違いないが、併しこれで見ると一体小学校の先生達は、その筋から大いに期待をされているのか、それとも甚だ不安がられているのか、一向判らないという人がいるかも知れない。それは全くそうで、賄賂を授受しそうであればこそああ云った式も必要だったのだから、従っていくらああいう式を挙げて見た処で、先生達は矢張、いつか賄賂を授受しなければ立ち行かない客観的情勢に立ち到るだろう。小学校教育行政組織やそれと裏表にあざなわれている師範教育の根本特色を訂正しない限り、先生方の「人格」も訂正出来ない。仮に師範学校を専門学校程度に直しても、それが「師範学校」教育である限り、他の点はとに角として、この賄賂の人格性に就いては、恐らく何の変化も齎らされないだろう。
だが賄賂の問題は実は、小学校の先生の社会的使命から云えば、大した問題ではないのだ。それは高々府か県で心配すればいい問題で、国家乃至政府にとっては、もっともっと大きな問題があるのだ。先生の「人格」だって、教員の「正しさ」だって、そこまで行かなければ着眼点は低いというものである。でこの高い「国家」的な着眼点からいうと、小学校の先生達は、国家から何にも増して大きな最後の期待をかけられているのである。もし今日のわが国家が、この点に於て小学校の先生を疑い始めたら、それはもうわが国の厭世自殺を意味するのだ。
そこで、堅実なる第二国民の養成を天職とする全国二十五万の小学校教員は、三万六千余名の代表者を送って、昭和聖代の御慶事 皇太子殿下の御降誕を奉祝し併せて忠君愛国の日本精神を昂揚して教育報国の誠を示す処の小学教員精神作興大会[#「小学教員精神作興
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