起草の技術から云っても右翼団体取締りの項目を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入することは困難だというのである。ファッショ的活動に対しては、五・一五事件の場合のように、殺人、放火、爆発物取締規定違反、暴力行為取締法違反、出版法違反、等の罪名でよく、もしそれでも間に合わない場合には内乱罪で取り締れば良いではないか。戦争を挑発したりして安寧秩序を害する不穏文書の取り締りのためには、出版法を改正しようではないか、というのである。
 吾々は併しどうも政府側のこの議論の方が筋が通っているのではないかと思う。一体委員達は、治安維持法というものの精神を根本的に誤解しているようだ。治安維持法という名が付いているからと云って、この法律が、治安を維持するために必要で充分な法律だなどと思うのが非常識で、治安維持法というのは、単に共産党弾圧法以外のものではないのだ。共産党が治安を乱そうが乱すまいが、又治安維持しようがしまいが、とに角共産党の存在がいけないぞという法律が之なのだ。だから仮に右翼団体が治安を乱るとしても、治安維持法で之を取締れなどと云われるのは甚だ迷惑なことだろう。治安維持法と治安維持とは必ずしも対応するとは限らないのである。
 委員達は無論共産党は大嫌いだし、又右翼団体も今云ったように、あまり好きではないのだから、治安維持法へ無理にファッショ取締りの役目を課すことによって共産党弾圧の力を鈍らせるより、治安維持法は純粋な治安維持法としておいて、寧ろ別に右翼取締りの統一的な法律でも出した方が賢明ではないかと思う。併しそれはまあ別の話として、治安維持法即ち共産党弾圧法そのものを、もっと有効に改正する必要があるということを、委員達はこの際ハッキリ認識しなければいけないのである。というのは、今度の改正法律案でも、依然として、尊厳なる国体と、かの外来の私有財産制度との、くされ縁が切れずにいるからである。
 最初の治安維持法では「国体の変革又は[#「又は」に傍点]私有財産制度の否定」と云ったような呑気な法文だったのが、第一回の改正では、同一条項の下に、国体の変革と私有財産制度の否定とを別行に直したが今度の改正で、それが第三条以下と第八条以下とに別条にすることになっている。
 だがこうしても矢張、共産党員も共産党員でないものも、わが国体と私有財産制度との間に、何かの関係があるのではないかというような変な考えを起こさないとも限らないので、悪くするとこの法律は藪蛇になると不可ない。だから、私有財産制度の方を思い切って除いて了った方が、この際万全の策ではないかと思うのである。代議士諸君が資本家の代弁者であれば別だが、そうでない限り之に苦情はない筈だ。いや苦情は尤もだが、併し同じ物を売り出すならば評判のいいレッテルを貼った方が得策だろうではないか。
 この点はすでに東京朝日新聞の論説にも説かれていたが、とに角今度の改正案によると私有財産制度の否定の方は非常に影が薄くて国体変革の方が著しく光って眼につく。同紙によると(一月三十一日付)これは、最初の治安維持法制定の時期に於て、之によってブルジョアジーの利益を擁護しようとする目的を持っていたことの名残だそうで、それならば益々治安維持法の名誉のために、又ブルジョアジー自身の名誉のためにも、私有財産への遠慮は捨て去って了うべきだろう。改正法律によると「予防拘禁」(第五章)ということが発明されているが、それは国体変革の罪人だけに通用するので、私有財産否定の罪人には適用されないことになっているのは、或いはその準備であるかも知れぬ。この次の「改正」にはキット私有財産は国体と無関係だということが法文の上で明らかにされることになるだろう。その時初めて、治安維持法は「国体維持法」としての権威[#「権威」に傍点]を持って来ることが出来るだろう。
 治安維持法に「国体維持法」としての権威が具わった暁には、今度の改正案中の、先に云った「予防拘禁」の発明や、刑事手続(第三章)上の新案や、又「保護観察」(第四章)の工夫などが、至極尤もな常識に適した内容を有っていることを、人々は発見するようになるだろうと思う。
 予防拘禁というのはどういうことかと云えば、国体変革のための結社をなした犯人が刑の執行を終って釈放される場合(死刑と無期の場合は論外)更に同じ罪を犯す恐れあること顕著なる時に裁判所が刑務所内で二年ずつ句切って永久に拘禁を蒸し返えすことが出来るということである。之によって、この犯人達は転向しない限り無期徒刑に処せられるわけで、国体の尊厳を体得せしめる法律としては最も合理的な内容のものだということが判るだろう[#「判るだろう」は底本では「判るだらう」]。
 刑事手続上の新案というのは、国体変革のための結社をなした疑ある者が、住処不定であったり変名や偽名を用いる場合は、六十日乃至百二十日の拘留を申し渡たされるというのである。罪証湮滅や逃亡の恐れある被疑者も亦無論そうである。之によると住処を調べたりペンネームを調べたりするには少くとも六十日はかかる見込みらしい。だが問題の犯罪が犯罪であるだけに、取り調べに慎重な落ち付きが必要だろうから、二月や三月の拘留は、国民として、国体の尊厳のために我慢して然るべきものではないか。
「保護観察」というのは、之も亦刑法上の問題であって、幼稚園の園児や小学校の児童に就いての規定だと思ってはならない。執行猶予や起訴保留(?)になった治維法の犯人は、必要に応じて、保護者に引き渡されることになるということなのである。保護者に引き渡されない場合は、寺や教会や保護団体や病院におあずけになるのである。お寺や教会に渡すということはどういう意味なのか判らないが、病院に引き渡すという処を見ると、あまり縁起のいい規定ではないようだ。併し万事は国体の尊厳を維持するためだ、国民に文句はない筈である。

   三、荒木陸相の流感以後

 今年の流行性感冒は非常に悪質で、私なども一カ月も寝ていたために、前号の「社会時評」の原稿を書きそびれて了ったが、そんな小さなことはどうでもいいが、荒木陸相がこの同じ風邪で大臣を止めなければならぬというような大事件を惹き起したということの方が、この感冒の歴史的意義をなしている。
 尤も一方に於て当時の新聞紙の報じる処によると、荒木陸相は昨年末、例の内政会議終了の前後から辞意を決していたのだそうで、当時の林教育総監や真崎軍事参議官やがその前後策を凝議していたということだ。これで見るとこの歴史はただの流行性感冒だけでは説明されないのかも知れないけれども。
 とにかく今まで猫のように大人しかった政党、例のロンドン条約問題で青年将校達を怒らせた若槻総裁の言論などを除けば、軍部の云うことに対しては今までグーの音も出なかった政友会や民政党が、今度の議会で、どう潮時を見計らったのか、猛然として軍部に喰ってかかり始めた。第一に、曽つて極めて唐突に発表された軍民離間に関する声明書に就いて、衆議院ではその動機を説明しろと当局を追求し始めた。荒木陸相に代った林新陸相と大角海相とはそこで、軍民離間を強調した内容の印刷物を配布した者があったから、容易ならぬ事態と考えて声明書を出すことにした、というように説明して除けたが、斎藤首相はどう思ったか「軍部の声明書発表について私は何等相談にもならねば発表後報告にも接して居らぬ」と答弁したものである(読売一月二十五日付)。そこで追求は愈々急となったので問題は秘密会に移されることになり、結局政府が泣きを入れてこの追求は打ち切って貰うことにしたのである。例の「少壮将校」連がこの生意気な追求に憤激したことは云うまでもないが、海相などは、亀井貫一郎代議士にキメつけられて、将来かかる事を材料として声明書は出さないという弁疏をさえさせられることになったのである。
 次に問題にされたのは軍人の政治干与の件である。軍人が政治に干与することは、云うまでもなく明治大帝の賜わった軍人勅諭の精神に反するもので、取りも直さず軍紀の甚だしい弛緩を意味することは、昔から明白なことなのだが、小川郷太郎代議士は今更らしくこの点に就いて、勇敢にもダメを押している。問題は貴族院の方にも廻って行って、大河内子爵は同じく軍紀問題を追求し、兼ねて軍部の言論圧迫を攻撃するということになって来た。荒木陸軍大臣が風邪に罹ったばっかりに実に大変なことになったものである。
 林陸相はそこで陸軍の統制に対して次のような方針を有つものだと報道されている。一、陸軍部内において軍人で軍務以外の内政外交に関して調査研究するのは支閊えないが、部分的に対外意見を発表することは絶対にいけないこと。二、調査研究の結果必要と認められるものは大臣及び次官まで意見を具申すること。三、大臣及び次官は必要によっては之を政府部内に持ち込み、或いは適当な方法を採って善処するが、大臣又は次官と雖も猥りに対外、対社会的な発言はすべきでないこと(読売新聞二月二十八日付)。それだけではなく林陸相はこの旨を師団長会議で詳細に訓示しようということを、衆議院の治安維持法改正法案委員会の席上で口約しているのである。尤も大角海相の方は、今更判り切ったことを訓示でもあるまいということで、こうした訓示は思い止まったようであるが。
 軍部はこうやって、軍人の政治的言動に対して、この議会で、可なりに気がひけているらしいが、同時に軍人の政治的言動が、逆に世間人の軍事的言論を呼び起こしているという事実にも、気がひけ始めたらしい。で、陸軍省は海軍省と共同して、内務省と外務省とを加えた四省会議を開き、戦争挑発出版物を積極的に取締ることになった。但し全面的な取締りは言論出版の圧迫となり、却って国民の理解力を稀薄にする恐れがあるという理由で、特殊のソヴィエトとかアメリカとかの国家を目標とする戦争挑発物の出版及び記事と当局の意図のように推定されそうなものや国民や列国を惑わせるような戦略戦術の出版及び記事とだけを、部分的に厳重に取締ることにしたそうである。軍人の政治理論や社会理論が世間人に取って迷惑至極であるように、世間の素人戦争、ジャーナリスト達の戦争論や戦略戦術論は、軍部に取ってさぞ有難迷惑だろう。だからお互いにバカな真似は止めようではないか。というのが、林陸相達の方針であるらしい。(折も折、文壇の荒木陸相を以て目されていた直木三十五氏が死んだ。おかげで帝国文芸院の成立やその大衆文芸班に相当する「日本国民協会」の発展などは、さし当り一寸心細くなって来たようである。但しそのお膳立てをする任務を某方面から委任されていると云われる松本警保局長は益々健在で、荒木や直木の損失を補って余りあるかも知れないのであるが。)
 政治家や評論家に云わせると、こういうような具合だから、日本の社会情勢は可なり自由主義の方向へ傾いて来たのだというのである。なる程例の一九三五、六年の危機とか、又非常時とか云う掛け声も、質問が出たり半畳が這入ったりしては気抜けがせざるを得ない。吾々は初め軍人達の号令に従って、わが国の対外政策、外交を景気づけるために非常時非常時という掛け声を掛けていた処、広田外相が出て来て云う処によると、こういう掛け声は実は広田外交にケチをつけることにしかならないらしい。荒木外交を実行するために登場して来たのが広田外相かと思ったら、荒木陸相は風邪を引いて了って、広田外相だけが健全なようである。そう考えて見るとどうも軍人の勢は衰えて、リベラリズムの世界が近づいて来たのかも知れないという気もするのだ。
 処が軍人の勢力をそんなに見縊ってはならないのである。軍人にも色々あって、現役は云うまでもなく問題ないとして、在郷軍人や青年団や青訓生其他の「壮丁」と呼ばれるものが都市や農村を通じて充満している事実を見逃してはなるまい。例えば、東京朝日新聞社の主催で陸軍省の後援による全国優良壮丁市町村の調査が最近発表されたが、調査の項目は徴兵成績、身長、体重、其他であって、要するに一種の身体検
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