義の精神に於て、又ニーブール(B. G. Niebuhr)、グリム(J. L. Grimm)、ザヴィニー(F. K. v. Savigny)等に依て代表される独逸歴史学派の精神に動かされてそう考える。併し此歴史的方法としてディルタイが、初めて独特な意味に於て精細に規定したものは解釈学と呼ばれる一つの哲学方法であった。元来解釈学とは文書解釈の技術のことであり、従ってフンボルト(K. W. v. Humboldt)等の言語哲学の発展としてシュライエルマッハー、ボェック(A. Boeckh)等に依て大成されたものなのであるが、ディルタイは之を単に言語解釈上の技術には限らず、広く現実的存在たる人間生活一般の精髄(生)の解釈の方法と考えた。夫が哲学の方法となる所以である。今、解釈とは理解(了解)と普通呼ばれる事柄の具体的学問的なものを指す。理解の概念から説こう。吾々は正当な意味ではただ精神的なるもの(生)のみを理解することが出来る。自然科学で取り扱うような自然は之を説明すると云うことは出来ても之を理解すると云うことは出来ない。自然は因果的に説明され構成され得る。之に反して生はただ記述され分析され
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