得るのみである。理解とは生の理解の外ではない。併し、生を理解し得るためには初めから生の内に生きているのでなければならない。生は生の外から理解されようがない(外から理解されれば夫は精神的な生ではなくて自然となって了う)。それ故理解とは「生を生それ自身から理解する」ことに外ならぬ。併し生とは何か。まず第一に「夫を生きること」(体験)でなければならない。そして而も体験とは意識現象に通じるものである外はない。凡そ現実的存在は吾々の意識を通路としてのみ生として生きてあることが出来又体験されることが出来るからである(現象性の命題)。併し、かかる意識(又はその意味に屡《しば》々用いられる処の理性)は単なる意識ではなくて歴史的意識(歴史的理性)でなければならない。何故なら現実的存在が歴史的なのであったから。で体験としての生は、その意味に於ける意識は、決して個人の主観の範囲内にのみ閉じ込められて終るものではない。体験は直観のようにはそれ自体の直接性に止まることが出来ない。体験するとは、外なるものを内なるものに取り入れることであるが、やがて生は逆に内なるものを外なるものとして表現せざるを得ない。かくて表現
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