は生の第二の規定である。一応主観的な精神(生)と考えられた体験は、自己を客観的な精神(生)として客観化す。そうすることが生の事実なのである。人間の歴史的社会的所産たる科学・哲学・道徳・芸術・宗教等の文化や国家・教会・家族等の外的諸組織が取りも直さずかかる客観的精神としての生の表現なのである。生は外部的に表現されて、初めて却ってその見えない奥底を示すことが出来る。さて内なる体験を外部化したこの表現をば、もう一遍体験の内部へ取りもどすこと、之が理解ということの意味である。歴史的である生が具体的に即ち又歴史的に、体験され理解されるためには、生は自己の歴史的所産たる表現を通って来ねばならぬ。かくて理解は生の第三の規定である。生の以上三つの規定は併し同時に生の解釈の三つの規定でなければならぬ。生を生それ自身から理解するとはそれ故、このような三つの規定を具えた生の自己解釈の謂である。処で哲学そのものが、恰《あたか》もこの生の自己解釈に外ならない。ここから哲学の方法は解釈学でなければならないのは当然である。哲学が歴史的方法に従わねばならぬ理由であり、従って又夫が形而上学的体系を持ち得ない所以である。
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